先日、映画「フラガール」を見ました。見るのは3回目ですが、いい映画です。
改めて感じたのは、エネルギーが石炭から石油に切り替わった1965年に、炭鉱の町に「常磐ハワイアンセンター」(現在、スパリゾートハワイアンズ)を作ろうと考えた先見性です。
実はこの常磐ハワイアンセンターの歴史は、何回も危機を迎えて、それを克服するという挑戦の歴史でもありました。
当時は石炭業界が構造不況に陥り、1955年から始まった常磐炭鉱の人員整理対策として、雇用創出と新たな収入源確保のために常磐ハワイアンセンターを作りました。
炭鉱では、地下から沸き上がる温泉水は厄介者扱いされていました。逆転の発想で、その豊富な温泉水を利用し、当時「行ってみたい外国ナンバー1」だったハワイをイメージして作ったリゾート施設が「常磐ハワイアンセンター」だったのです。
以下、Wikipedia「スパリゾートハワイ」からの引用&抜粋です。
1966年のオープン前後
常磐ハワイアンセンターの先行きを疑問視する声が多数あった。炭鉱社員の転身にも根強い反対があった。「10年続けば御の字」という悲観的な見方も。
最終的には当時の常磐湯本温泉観光社長・中村豊氏が押し切って事業を進めた。
1966年オープン。当時の日本は高度経済成長期。海外旅行は庶民には高嶺の花だったこともあり、当時破格の1泊3万円以上にも関わらず年間120万人強の入場者を集めた。1968年140万人突破、1970年には155万3千人となりピークに。
1971年
ニクソン・ショックで1米ドル=360円から308円に切上げ。1973年変動相場制移行とオイルショックで輸出依存型の高度経済成長は終焉。1975年入場人員は年間110万人にまで落ち込む。1977年以降は年間100万人〜110万人程度で横ばい。
1988年
バブル景気が始まると、1988年に一気に年間140万人超まで入場人員が増加。総事業費50億円をかけてリニューアル開始。
1990年
オープン25周年。「スパリゾートハワイアンズ」に改称。1991年は年間140万人超。
しかしバブル崩壊で1992年には年間120万人台にまで減少。
さらに1985年のプラザ合意で急速な円高が発生し1994年には1米ドル=100円の大台を突破、さらに格安航空券が一般化。「本当のハワイに行った方が安い」と言われるように。
1994年以降、年間110万人前後で横ばい。
1997年
日本一の大露天風呂「江戸情話与市」をオープン、同年年間120万人を回復。右肩上がりに入場人員の増加が続く。
「ハワイ」「南国」に、後にブームとなる「温泉」を加えたこと、東京や仙台などからの無料バスによる送迎サービスを行うなどの集客努力などが功を奏した。
2000年アクアマリンふくしまが開館、いわき市内で回遊性も生まれた。2005年年間利用者数150万人を達成。
2006年
映画『フラガール』全国公開を機に、「ワイワイ・オハナ」「アロハタウン」「フラ・ミュージアム」など次々オープン。2007年、過去最高の年間161万1千人が入場。
2011年
3.11東日本大震災発生。休館。
福島第一原発事故の影響で20 – 30km圏内に屋内退避指示。屋内退避指示範囲はいわき市面積の0.6%であり、同施設は原発から51Km離れていたが、報道で「いわき市の一部に屋内退避指示」と曖昧に伝えたために県外からのトラックが忌避。物流ストップ。(4/22に屋内退避指示解除、フラダンスのレッスン再開)
さらに4月11日、同地震の余震(震度6弱)が発生。「ウォーターパーク」に大きな被害。長期休館を余儀なくされる。
2012年2月8日、復旧費42億円をかけて全面再開。総工費55億円をかけて新ホテル「モノリスタワー」をオープン。
まさに「苦闘の歴史」。
自らの意志で挑戦し、変革を続け、克服してきたスパリゾートハワイ。
同じく変革に迫られている現代の企業にとっても、学ぶべき点は多いと思います。