「弁証法」の誤解が、ビジネスの対話がカラ周りする原因


「弁証法」や「アウフヘーベン」という言葉、耳にしたり、実際に使ったりしたことがある方は多いのではないかと思います。

広辞苑によると、「アウフヘーベン=止揚(しよう)、揚棄(ようき)。ヘーゲル哲学(弁証法)の用語」とあります。

高校の倫理の教科書でも、「ヘーゲル哲学は正反合を通して、真理を明らかにする」とあります。

高校でも教えているので、著名な知識人でも「ヘーゲル哲学=弁証法」とおっしゃる方は少なくありません。

しかし私は、昨年末に刊行した「世界のエリートが学んでいる教養書 必読100冊を1冊にまとめてみた」を執筆中に、大きな違和感を持ちました。

日本の哲学研究者で「ヘーゲル哲学は正反合」と言う人は、ほぼ皆無なのです。(彼らはヘーゲル哲学を熟知しています)

実は「ヘーゲル哲学は正反合」というのは大間違いなのです。

「そんな哲学的な解釈なんて、どうでもいいじゃん」と思うかもしれませんよね。

でもこの誤解が、私たちがビジネスで対話を通して的確な結論を導き出せない原因なのです。

例えばこんな会話を考えてみましょう。

A夫さん「昼はカレーが食べたいなぁ」
B子さん「私はトンカツだなぁ」
A夫さん「なるほどね〜。うどんねぇ」→①
B子さん「どうしようかなぁ…」→②
A夫さん「カツカレーはどうかな?」
B子さん「なるほど、カツカレーね〜」→③

こうして二人はカツカレーを食べるわけですが、心の中でこう思っているかも知れません。

A夫さん(実はトンカツ苦手なんだよね…。カレー食べたかったなぁ)
B子さん(実はカレー苦手なのよね〜。トンカツ食べたかったなぁ)

これは、理想的な解決策とは言えませんよね。

ポイントは上記の①②③です。①②の段階で本音の対話をせずに、対立を避けています。そして③で安易な折衷案に辿り着いています。その結果、二人とも(本当はトンカツ苦手)(本当はカレー苦手)というモヤモヤした不満が残っています。

巷ではこんな説明する人がいます。

「ランチでA夫さんはカレーを食べたい(正)。B子さんはトンカツを食べたい(反)。アウフヘーベン(止揚)してカツカレー(合)にすれば、二人とも満足。これがヘーゲルの弁証法だよ」

でも、これでは率直な会話ができず、理想的な解決策にはほど遠い結果になるわけです。実はこれ、「間違った弁証法的な対話」です。

「本来の弁証的対話」は、こんな感じです。

A夫さん「昼はカレーが食べたいなぁ」
B子さん「私はトンカツだなぁ」
A夫さん「うーん、僕はトンカツは苦手…」→①
B子さん「私もカレーが苦手なの…」→②
A夫さん「他に何かないかな?」
B子さん「そうそう美味しい店あるわよ」→③

こうして、二人とも満足できるバイキングのお店を見つければ…。

A夫さん(好きなもの食べ放題だ!)
B子さん(ここにしてよかった!)

となります。

これが本来の「弁証法的な対話」です。

ポイントは上記の①②③です。まず①②の段階で、言葉は柔らかいですが、相手の言うことを明確に否定しています。その結果、③で相互満足の新たな解決策に辿り着いています。

このように、弁証法的な対話の本質は「否定」にあります。

ヘーゲルは主著「精神現象学」の序論で、植物が育つ過程を次のように表現しています。

「つぼみは、花が咲くと消えてしまう。そこで、つぼみは花によって否定されると言うこともできよう。同じように、果実によって花は植物の偽なる定在と宣告され、その結果植物の真として果実が花に代って登場することになる」

「『つぼみが咲いて果実になる』でいいじゃん。なぜわざわざ『つぼみが花で否定される』なの?」と思ってしまいますが、これも「否定の力」を強調するためです。そして種は、再び種に戻ります。「否定に否定を重ねて再び種に戻るように、モノゴトにはひとまとまりの過程がある」ということを、ヘーゲルはこのたとえ話で表現しようとしているわけです。

「否定」が本質であるヘーゲルの弁証法では、相手も、そしてそれまでの自分の考えも、全身全霊で否定します。そこから新たな知を紡ぎ出すわけです。改めて「カツカレー」の例は、ヘーゲルの弁証法とは似ても似つかないシロモノとわかると思います。

最近巷で話題になっている「心理的安全性が高い組織」も、ヘーゲルの弁証法的対話が自由にできる組織を目指しています。

心理的安全性とは、「ここでは、何を言ってもやっても大丈夫」と感じる組織の雰囲気のことです。組織の全員が「ここでは何でも言えるし、心おきなくリスクも取れるね」と思えれば、知識を共有・活性化し、アイデアが新たなアイデアを刺激し、次々とアイデアを生み出せるようになります。

このカギが、社内的なポジションに関係なく、自由に相手の意見を否定でき、かつ何を言っても責められないことなのです。ですので相手の意見も自由に否定できますが、自分の意見も容赦なく否定されます。

ときどき「心理的安全性が高い組織って、居心地良さそうでいいなぁ。いまの組織って、キツくてなんかイヤ」とおっしゃる方がいます。これは大きな誤解です。「心理的安全性が高い組織」は、否定されることに慣れていない現代の日本人にとっては、意外としんどいかもしれません。

さて、ヘーゲルの弁証法に戻りますと、在野の哲学研究者・長谷川宏氏は、著書『新しいヘーゲル』(講談社現代新書)で、このように述べています。

「正‐反‐合の三段階に即していえば、社会の動きの全体が最終的に『合』に帰着することに安堵を覚える。が、みずからの生活実感にもとづくそうしたヘーゲル理解は、まったく的を外している」

※…ちなみに長谷川氏は東京大学大学院哲学科博士課程で学んだ後、自宅で学習塾を経営しながらヘーゲルを研究してきた方で、ヘーゲルを中心に海外哲学者の翻訳も多く手がけています。

なんでこんな誤解が生まれたのでしょうか?

『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)の「正反合」の項目に、こんな誤解が生まれた経緯が書かれてあります。

「正・反・合……ドイツ語のテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼの訳語である定立、反定立、総合を略したもの。フィヒテが『全知識学の基礎』(1794)で用いた概念であるが、マルクスやイギリスのヘーゲル学派がこの概念を借用して、ヘーゲルの弁証法を通俗的に説明したところ、日本にヘーゲル哲学が紹介された。(以下、略)」

こうして偉そうに書いている私も、実はかつて「ヘーゲル哲学は、正反合」とドヤ顔で話していたことがあります。煉獄さんではありませんが「穴があったら、入りたい!」という気分です。

西洋哲学は一見するとチンプンカンプンに見えますが、そのエッセンスを理解すると、このように経営理論の本質を理解して仕事に役立てる上で、実に役立つのです。

   

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