本日(3/8)の日本経済新聞夕刊「グローバル化、ファン・ヒンケルさんに聞く」で、国連大学のハンス・ファン・ヒンケル学長がグローバル化と日本について語っています。
ヒンケルさんは、グローバル化の日本人の課題として、「閉鎖性」と「言葉の問題」を挙げています。
一方で、これが変化しつつあることも指摘しています。
—(以下、引用)—
….言葉の問題は重要ですが、同時に、世界には自分とは違った考え方があるということを理解することも大事です。英語を母国語とする英米人らはそういう点ではフレキシビリティー(柔軟性)に欠けます。英語で苦労している日本人はおのずと他の文化の存在を認識できており、大変幸運な“特権階級”かもしれませんね
—(以上、引用)—
これは実感します。日本人から見ると米国人はみな国際化しているように見えますが、多くの米国人は母国語以外は話しませんし、米国以外の他の文化があることを意識していません。これは決して悪気があったり高飛車な態度であるということではなく、海外から米国に来る人達がみな英語を話すので、本当に知らない、という状態です。
先の大統領選挙で、米国国民がブッシュを再選したのも、こんなところが背景にあります。
ですので、米国はグローバル化しているかもしれませんが、多くの米国人は必ずしもグローバル化しているとは言えないかもしれません。
—(以下、引用)—
….日本人に限らず、私はだれで、どこから来たのか、自分は社会のために何ができるのか、と多くの人が自身に問いかけている。その解はグローバル化で見つけやすくなっているのではないか。情報があり、多くの出会いの中で、誰もが自分の位置を確かめやすくなっているから
—(以上、引用)—
同質化している社会では、なかなか自分の立場が見つけにくいのに対して、多様化した社会では、同質化した社会ではなかなか気が付かなかった自分のアイデンティティが見つけやすくなっているのかもしれませんね。
米国って、本当にグローバル化しているんですかねえ?
米国のやっていることって、米国ローカル化、アメリカンスタンダードの押しつけであって、グローバル化とはちょっと違うのではないかと思うのですよ。
確かに、全て米国ローカル化してしまえば、グローバライズされますけど、それは15世紀の植民地支配と同じ発想でエゴの押しつけに過ぎず、グローバル化とは異質のものでしょう。
結果生み出した物は資産階級への資産集中と金銭支配、自由化平等化と言いつつ与えているのは、飢え死にする自由、貧乏になる自由で、皆が幸せになることは考えていない。
日本文化、日本的手法が世界から注目されている今、米国傀儡のカタカナ頭より、和を持って尊しとする日本式摺り合わせ文化こそ普遍的世界化地球規模化の鍵なんじゃないでしょうか。
himatさん、コメントありがとうございました。
おっしゃる通り、アメリカン・スタンダードがグローバル・スタンダードではないことは確かですね。
グローバル化に関する世の中の認知は、"The World Is Flat"で書かれている指摘により、全く違う段階に移行したのではないか、と私は思っています。米国が望むと望まぬとに関わらず、サービス業がインドのアウトソーシングに移行したり、等、米国は世界のフラット化の影響を最も受けていてグローバル化している(してしまった)国の一つだと思います。フラット化の影響は、米国社会全体できわめて大きいのではないでしょうか?
ちなみに、ヒンケルさんは米国人ではなく、インドネシア生まれでオランダ国籍だそうです。