ねとらぼに『東京造形大・入学式の式辞が名スピーチだと話題に 「経験という牢屋」学長が語る』という記事が掲載されています。
現時点ではてぶが500件超えています。素晴らしい内容です。
高校時代にカメラを手に入れ、大学を休学して映画作りに夢中になった東京造形大の諏訪敦彦学長。
数十本の映画の助監督を務めて現場経験も豊富、「もう大学で学ぶことはない」と思いつつも、ふと大学に戻り、自分の映画作りに挑戦します。
しかし、経験に基づいて作った作品は惨憺たる出来でまったく評価されず。一方で未経験で技術も未熟な同級生達は
自由な発想に溢れていました。
諏訪さんは「経験という牢屋に閉じ込められていたことを理解した」とおっしゃっています。記事では以下のように紹介されています。
—(以下、引用)—
「経験という牢屋」とは何か。仕事の現場経験で身につけた能力は、仕事の作法のようなものです。その作法が有効に機能しているシステムでは能力を発揮しますが、誰も経験したことのない事態に出会った時はその限りではありません。そして、「クリエイション(探求)は誰も経験したことない跳躍を必要とする」のであり、大学においては未知の価値を探求する自由が与えられていると続けます。飛躍は“経験”では得られず、“知(インテリジェンス)”によって可能になるからです。
—(以上、引用)—
「現場での経験だけではなかなか智恵が深まらない」というのは、私も実感したことです。
私は開発やセールスの現場で仕事をし、30代後半にマーケティング職になりました。
当時の私は現場第一主義でしたが、最初に直面したのは現場の経験だけではビジネス全体の戦略を考える力がついていなかったことでした。
そこで様々な本を読んだりしましたが、今ひとつ分からず。
そこで社会人大学院の門を叩き、2年間学びました。
すぐに答えは見つかりませんでしたが、これまで経験しなかった様々な「知」に出会うことができました。修了してから12年が経ちますが、ここで学んだことは自分の中で徐々に育っていて、自分の身となっていることを実感します。
今年4月からはこの社会人大学院で講義を持たせていただくことになりました。学ばせていただいたことをGive backとしてお返ししたいと思っています。
現場の仕事で学ぶことも大切ですが、それだけでは不十分。「経験という牢屋」に入ってしまいます。
一方でアカデミーで学ぶことも大切ですが、私はそれだけでも不十分だと思っています。
「現場で学んだこと」と「アカデミーの知」が融合することで、実践の知が生まれてくるのだと思います。
最近、社会人大学院の広告が新聞などでも増えているのも、このような社内のニーズがあるからではないでしょうか?