漱石の「草枕」は、こんな冒頭から始まります。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」
漱石も述べたように、昔から日本社会では、「ロジックで筋を通す」のはなかなか難しいことです。
ともすると、事実に基づいたロジックではなく、何となくその場の空気で決まるケースも多いですね。
たとえば
「確かにこれは筋ではないかも知れないよなぁ」
「でも、こんな状況だと言えないよなぁ」
「まぁ、取りあえずこうしておいた方が角が立たないんじゃない?」
「そうだよねぇ」
と、何となく全体の空気で決まったりします。
ロジックよりも、人間関係に波を立てないことを優先するためです。
あとで「どうしてそうなったの?」と聞いても、「いやぁ、そんな雰囲気だったし」とちゃんと説明できないことも多いのです。
色々な状況がありますので、このように判断するのが一概にすべて間違っている、ということはないでしょう。
しかし、これを安易に行ってしまい、たとえば本来は非はないにも関わらず謝罪してしまったり、あるいはコミュニティ外の状況を考慮せず組織の論理で判断したりして、逆に後々に大きな問題になることもまた、多いように思います。
冷泉昭彦氏は著書『「関係の空気」「場の空気」』で、『「水」が差されることで、「空気」が消える』と述べておられます。
現代では、出来上がった「空気」に「水」を差すと、閉じたコミュニティでは非難されたり、ネット上では炎上したりすることもあります。
それでもなお、こんな世の中だからこそ、常にロジックにこだわって筋を通し、時には不条理な「空気」に「水を差す」ことが必要な時代なのではないか、と感じています。