冷泉彰彦著「アメリカモデルの終焉」を読了しました。
本書は2008年の金融危機直後に書かれました。5年前の本ですが、1993年から米国に在住されている冷泉さんならではの視点があり、今でも多くの示唆があると感じました。
本書は、主に「米国の成果主義」の切り口で書かれており、これを日本にそのまま輸入してしまったことが、いかに弊害を生んでしまったかを書いています。
まず、成果主義が機能するために、本書では、3つの条件を挙げています。
一つ目は社員同士の仕事の守備範囲を決めている「横の軸」。二つ目は社員の上下関係の位置づけを決めている「縦の軸」。三つ目は評価対象期間を決めている「時間軸」です。それぞれが日米では異なります。
横の軸
米国:職務記述書で明確に規定。他人の仕事を侵してはいけない。硬直化している
日本:「お互いに助け合う」が基本。ぼやけている。反面、柔軟性がある
縦の軸
米国:管理職が人事権も含んだ絶大な権限を持つ
日本:人事権は人事部。管理職でなく若手が実質的にプロジェクトを動かすケースもある
時間軸
米国:単年度評価。(株主の業績評価のプレッシャーにより)
日本:長い時間軸
2008年の金融危機は、これらの問題点が浮き彫りになったわけです。
たとえば金融機関の社員は四半期毎の高いインセンティブを得ており、リスクを取りすぎて暴走してしまった一方で、業績低下のボーナスカットを恐れて早めの精算ができずに損失の先送りをしてしまいました。
また本書ではプレゼン文化についても述べています。
米国の教育システムは「プレゼン文化」です。それは幼稚園レベルから始まっています。
一方で根深い問題もあります。「声の大きな者」だけが横行する社会の脆弱性を持っていることです。
冷泉さんによると、小さい頃から「わかりやすく単純化して雄弁に」というコンセプトのプレゼンを叩き込まれた文化の延長で、金融危機では、様々な金融商品が実態不明のまま巧妙な話術と精緻なビジュアルで装飾され、投資家が債権の中身をわからないまま買ってしまった、としています。(p.190)
一方で米国人が苦手とするのは、「沈思黙考やため息混じりの本音など様々なコミュニケーションや思索のスタイル、あるいは思い切ってホンネや不安感を吐露するような局面、あるいは自分が持っていた前提条件を疑って現場に足を運んでみる、そういった発想の転換」(p.191)だとしています。
これは私も実感します。一例を挙げると、会議での沈黙は、日本人にとっては何らかの考えが深まる、意味がある時間です。しかしこの沈黙の時間は、米国人にとっては無意味に感じられ、何よりも耐えられないようです。
冷泉さんが次のように続けています。
—(以下、p.192から引用)—
要するに本当の意味で神と対話したり、神はいないのではと嘆いたりする「孤独な思考」は、実はアメリカのエリートは経験していないのだ。神様云々が 大袈裟なら、上の世代が作った現状の社会を一旦全部疑ってみる「反骨精神」の中から自分の生き方や思考を磨いていく訓練も、実はアメリカ人は弱いのではないだろうか。何よりも自分が想定していなかったような例外的な事態への冷静な姿勢、どんな事態にも冷静な論理で立ち向かう謙虚な姿勢と、妥協点を見いだす柔軟性に欠ける、プレゼン文化の持っていた脆弱性は今明らかになったのではないだろうか。
—(以上、引用)—
確かに米国人はあらゆるものを単純化して考える傾向があります。
これは、強い実行力を生み出すという点では強みですが、反面、思い込みによる間違いになかなか気がつかないというもろさもあるということは、私も感じます。
一部だけをご紹介しましたが、様々な点で、大変参考になった本でした。