やや古い記事ですが、冷泉彰彦さんのブログを拝読し、考えました。
確かに、ヤンキースで長年プレイをした後、エンゼルス、アスレチックス、レイズと複数球団を経験した松井氏が、どうして再びヤンキースタジアムで「引退セレモニー」を行い、観衆を総立ちさせたのか、不思議ですね。
私がなるほどと思ったのは、下記の文章です。
要するに「生え抜きで生涯一球団でないと裏切り者」というカルチャーはアメリカには皆無なのです。
個人へのリスペクトはあっても、戦力構想のために解雇することがあるし、それでも個人へのリスペクトは残る、それが「契約社会」だということです。
ちょうど今、「菊と刀」(ルース・ベネディクト著)を読んでいたところでした。
「菊と刀」は、第二次世界大戦末期の1944年6月、米軍から研究を委嘱された文化人類学者であるルース・ベネディクト氏が、日本に1回も足を運んだことがないにも関わらず、日本人の精神と文化について研究した成果をまとめた、歴史的な名著です。
前回読んだのは大学生の頃でした。それから三十数年が経ち、実際にグローバル・ビジネスを体験して読むと、また色々な学びがあります。
本書で、この冷泉さんのご指摘と同じ感覚を感じた箇所がありました。
「野球と戦争を比較するのは適切ではない」とのご指摘もあろうかと思いますが、日米で個人が組織に対してどのようなスタンスの差異があるかを理解する上で参考になると考えましたので、引用します。
—(以下、p.47-51から抜粋)—
この日本人の兵員消耗の理論を最も極端なところまで推し進めたものが、彼らの無降伏主義であった。西欧の軍隊ならば、最善の努力を尽くした後に、衆寡敵せずとわかれば、敵軍に降伏する。彼らは降伏した後もやはり自分を名誉ある軍人と考えており、その名前は、彼らが生きていることを知らせるために、本国に通知される。彼らは、….辱めを受けない。ところが日本人は異なったふうに規定していた。名誉とはすなわち死にいたるまで戦うことであった。…万一傷つき、気を失って捕虜になった場合にでも、彼は「日本に帰ったら顔をあげて歩けない」のであった。
….
だから日本人にとっては、俘虜になったアメリカ人は、単に降伏したという事実だけで面目を失墜した者であった。…日本人の眼から見れば、俘虜は恥辱を蒙ったのであって、アメリカ人がそのことを知らないということは、彼らには堪えがたいことであった。
….
また彼らはアメリカ人が俘虜であることに少しも恥を感じないという事実を納得することができなかった。
—(以上、抜粋)—
米国では、自分は組織のためにベストを尽くして闘った末に敗れても、その事実と自分自身はあくまで別と考えています。もちろん、敗れたことは事実で「残念無念」と思っています。しかし生き残ったことは、自分にとっては恥ではありません。
同様に、松井氏がヤンキースから戦力外通告されたことも、ファンからすれば仕方がないことであり、これで松井氏の名誉が失われることはありません。
一方で日本の場合は、自分と組織を一体化して考えます。そして敗れて生き残ったことは自分がベストを尽くしていなかった証明でもあり、生き残ったことは恥となります。
だから例えば「巨人軍から戦力外通告を受け、他球団に移籍するのであれば、引退する」と考え、ファンもそれを支持するのです。
この「組織と個人は別」と考える米国文化は、IBMに在職していてことあるごとに感じました。特にグローバル化が進んだこの数年間は、その傾向が強くなっていました。
冷泉さんの文章と、ベネディクト氏の文章を併せ読むと、米国では組織と個人があくまで対等な関係で規定されているのに対して、日本では個人は組織の一部として規定されているように感じました。
この点を、日本人と米国人がお互いに理解していないと、色々な問題が生まれてくるのですね。