メールと、心の生態系


大木さんの話の長い人間は、人の時間も使っているというエントリー、全く同感です。10分の長話を60人が聞く場合、全体で10時間という二度と還らない貴重な時間(及びコスト)が失われてしまいます。

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話が長くても話の内容が深まっていけば聞く側も得るものが大きいのですが、多くの場合、会議の時間枠は予め決っていますから、堂々巡りや以前の話の繰り返しは非常に大きな無駄です。

メールも同様ですね。

ビジネスで短く簡潔なメールが好まれる理由は、短いメール程情報伝達力が強まるためと思います。長いメールは読まれませんし、論理が筋道立っていないことも多く、読まれても情報が伝わりません。

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しかし最近、ビジネスを離れた世界ではこのルールは必ずしもよいとは限らないのかもしれない、と感じています。

例えば、あるコミュニティでメーリングリスト等を使って話し合う場合、ビジネスと同様に、話をなるべくシンプルにまとめて簡潔なメールを送ったりすると、コミュニティ全体の「心の生態系」のようなものが微妙に変わってしまう、ということが時々起こります。

事務連絡が簡潔なほどよいのはビジネスの世界と同様ですが、微妙な問題を話し合う場合は「それは理屈ではそうだけど、私達の気持ちはそんな単純なものではない」という声にならない声を、コミュニティ全体から感じることがあります。

そのような気持ちを持つ人のメールは、長いにも関わらず気持ちが痛い程伝わってきます。論理立って書かれていないのは、生の気持ちをそのまま書いているからでしょう。

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ビジネスを離れた世界では、当然ながら、これはアリですね。

仕事を離れた社会人主体のコミュニティは、普段はなかなか会えないので、どうしてもメーリングリストでのコミュニケーションが主体になります。だからこそ、常に「文字だけでは決して伝わらないものがある」ということは意識したいですね。