我々は聖人君子ではありませんので、何となく「苦手だなぁ」と思ったり、「なんとなくいやだなぁ」と感じてしまう人が、どうしてもいるものですよね。
自分に当てはめて色々と考えてみると、「相手のここが嫌」と思う部分は、自分の深い心の中で「自分のここが嫌」と思っている部分と実はかなり一致しているのではないか、という気がします。
普段は、自分にそのような嫌な部分があることは意識していませんし、逆に表面意識の上では「自分は違う」と否定することも多いとは思いますが…..。
相手のエゴに見える部分は、実は自分が日頃抑えようとしている自分自身のエゴの部分であるような気がします。例えば、虚栄心や、物欲、等など。
■ある種の虚栄心を持っている自分は、同じ虚栄心を持っている他人を嫌に感じる
■ある種の物欲を持っている自分は、同じ物欲が強い他人を嫌に感じる
自分のエゴが実はよく分かっているからこそ、他人のエゴもよく見える、ということでしょうか?
言い換えると、他人への嫌悪感は、自分への嫌悪感の裏返しでもあるのですね。
一方で、例えば、多くの人達が悪く言う人でも、自分が嫌と思わない場合も時にはあります。
このような場合、多くの人達が欠点と指摘する部分は、自分が日頃自分自身にエゴを感じている部分でなく、従ってそのような欠点は自分にとっては個性に見えることが多いように思います。
さて、我々はこのような他人と自分のエゴにどのように対処すればよいのでしょうか?
田坂広志さんは、「なぜマネジメントが壁に突き当たるのか - 成長するマネジャー 12の心得 -」で以下のように述べておられます。
率直に言えば、どれほど「無私」や「無我」を論じてみても、
我々が「エゴ」を捨てることは不可能です。
しかし、我々は「エゴ」を見つめることはできます。
そして、自分の内面にある「エゴ」を見つめ、
その動きが見えていることは、それだけで、
その「エゴ」が衝動的に活動することによってもたらされる破壊的な影響から、
我々を救ってくれるのです。
そうした意味で、マネジャーは、
自分のこころの世界にある操作主義の動きに
気づいていなければなりません。
他人への嫌悪感を解消するには、まず自分自身のエゴを静かに見つめることが大切なのかもしれません。
結局、他人との関係で生じる問題も全ては自分自身に原因があり、自分自身しか解決できない、ということなのではないでしょうか?
実はこのように書く自分自身が、なかなかエゴをマネージメントできていないのですが、このように文章に書くことで、ささやかなりとも自分のエゴを静かに見つめることができれば、と思います。