「長州でも薩摩でもなか」(150年前)→「アメリカ人でも日本人でもなか」(現代)



 

9/11の日本経済新聞夕刊のコラム「あすへの話題」で、エッセイスト寺澤芳男さんがコラムを書かれています。

—(以下、抜粋)—

…..。「龍馬伝」では、「われわれは長州でも薩摩でもなか。日本人ぜよ」。ここで一千万人の視聴者(多分そのくらい)はツンと鼻の奥が痛くなり涙ぐむ。

(中略)

 さすがにもう「外人」とはいわず「外国人」というようになったが、たとえばプロ野球などの「外国人」枠を外してしまったらどうなるのだろう。大学ラグビーも箱根駅伝も完全自由化したら日本人は何人残るのか。現在の大相撲のようになってしまうのか。体格や体力がものをいうスポーツではなくて頭で勝負する分野ならまだ大丈夫なのか。グローバライゼイションということは分かり易(やす)くいうとそういうことだ。

 「われわれはアメリカ人でも日本人でもなか。地球に住んでいる同じ人間ぜよ」。となるのだろうか。

—(以上、抜粋)—

非常に示唆的なエッセイだと思います。

150年前、欧米列強の脅威にさらされた日本は、「長州人」「薩摩人」という藩の意識から、「日本人」というもう一つ上の意識に、レベルに上がりました。

 

それから150年後の現在、温暖化や貧困、テロなど、様々な脅威が地球を取り巻いています。

一方で、グローバル化が急速に進み、遠い国にいる人との距離がネット上ではほとんどなくなっています。

実際、昨日ご紹介したように、今までTVやラジオでしか知ることがなかった北朝鮮当局の声明が、粗々ながらも日本語で自宅のPC上で読めるような時代です。

確かにアメリカ人、日本人、アラブ人といった国や民族の意識から、「地球に住む人間」というもう一つ上の意識に、レベルが上がるべき時なのかもしれません。