2012/09/25の日本経済新聞の特集「ネット人類未来 巨大データの光と影(2)驚異、衆知の力」で、興味深いことが書いていました。
—(以下、引用)—
米ニューヨーク大教授のクレイ・シャーキーは「人類にはテレビなどを見てぼうっと何もしていない時間が毎年1兆時間ある。例えば(ネットの百科事典といわれる)ウィキペディアの執筆に人々がかけている時間はそのわずか数千分の1。多くの人をネットに動員すれば壮大なことができるはずだ」と話す。
年間1兆時間。これまでは単に費やすことしかなかった時間が、ともに創造する時間に変わる。シャーキーはそんな現代を「思考の余剰時代」と呼んでいる。
(中略)
情報の発信者はもう政府やメディア、企業だけではない。ソーシャルメディアの普及もあり、24億のネット利用者から大量の情報が逆流する時代だ。がらくたもある。だが宝も多い。ネット社会を「砂上の楼閣」にしないために、人類の知恵が試される。(敬称略)
—(以上、引用)—
年間1兆時間というのは、人類の生産人口が大雑把に50億人として、一人年間200時間、一日当たり30-40分間の「ぼうっとした時間」がある、というのが算出根拠なのでしょうね。
確かに自分をふり返っても、比較的忙しい時期でも30-40分程度のぼうっとした時間はあります。
これまでは「ぼうっとした時間」に考えたことや目の前で起こっていることはその人だけのものでした。
しかしネットで共有することで大きな価値を生む可能性もあります。
確かに記事でも指摘されているように、ガラクタもありますが、宝もあります。
そして「宝」か「ガラクタ」かは、その情報を評価する人によって異なるのではないかと思います。
たとえば私の場合、書いた本に関するネット上での感想をかなり頻繁に目を通しています。書評サイトの情報に加え、Twitterのつぶやきやブログ、その他に書かれた情報もチェックしています。
たとえばご本人は何の気なしに書いた、
「電車で目の前の女性が『100円のコーラを1000円で売る方法2』とかいう本を読んでいる。どんな本だろう?」
というようなつぶやきでも、電車帰りに女性が『コーラ2』を読んでいること、本のカバーを見て興味を持っていただける人がいること、等が分かったりします。
このような様々な情報を蓄積すると、書いた本が世の中でどのように受け容れられているのかが、少しずつリアルに分かってきますし、それは私にとってこれまで得られなかったとても貴重な情報です。
ただこのような情報は私にとって「宝」ですが、他の方々にとってはそれほど意味はないかもしれません。
私の場合は手作業でまとめて考えているだけですが、記事ではウシャヒディのようにちらばる情報を集めて誰でも見られるように整理する技術も紹介されています。
一人一人にとっての「宝」を膨大な情報の中から見つける技術があると、色々と楽しいことがありそうです。