第1回目、第2回目、第3回目に続き、日本経済新聞社主催「第15回 世界経営者会議」の内容をご紹介します。
今回は2日目の講演から、富士フイルムホールディングス 古森重隆会長兼CEOのお話しをご紹介します。
私は写真をライフワークにしているため、’90年代後半から’00年代後半にかけた写真のデジタルへの流れを見てきました。
15年前、カメラ店では写真フィルム売り場は1フロアを占めていました。今はフィルムそのものがほとんど売られていません。
富士フィルム様の売上は、この写真フィルム事業で過半を占めていました。
どのようにこの危機を乗り切ったか、が今回のお話しでした。
自分への備忘録も兼ねて、雑記的に書いていますが、ご了承下さい。
・富士フイルムホールディングスの規模は、従業員8万人。売上2.35兆円。(現在)
・2000年に社長に就任。就任直後からカラーフィルム需要が急落。2003年にシミュレートしたら会社が数年持たないと判明した。事実それから10年で、写真フィルム市場規模は1/20程度になった。
・「これは天命である。断固として乗り切る」 覚悟を決めた。
・四象限で、縦軸に「新技術」「既存技術」、横軸に「既存市場」「新市場」と置き、事業を取捨選択した。
・選択基準は3点。「成長性」「自社技術が活かせるか」「継続的に競争力を持てるか」。この結果、6事業に経営資源を集中。異分野の研究者が壁を超えて創発できるように、研究者を一カ所に集めた研究所も作った。
・業績は厳しかった。しかし売上の8%に当たる年間2000億円の研究開発費は維持した。仮に研究開発費を売上の3%に減らせば、短期的利益は出る。しかし長期的な成長は損なわれる。短期利益を犠牲にしても、投資し続けた。
・富士フイルムが生き残り、競合の米国コダックは破綻した。その理由は、恐らく当社の方が変化を先取りする力が勝っていたためだ。実は両社ともデジタル化を予測し、対応していた。しかしコダックは自社既存製品を過信し、フィルム事業を事業の柱として残し、M&Aを中心にデジタル化に対応しようとした。しかし、これでは不十分だ。自分自身も新事業に対応しなければならない。当社は自分達で技術を身につけ、養い、新分野を開拓してきた。
・「コダックと富士フイルムの目の付け所の違いは、どこから来たのか?」という質問に対して….。米国は短期的経営であり、コダックもそうしていた。当社は短期的な数字を犠牲にしても、投資を続けた。
・「関係者に対して、新しい投資についていかに説得したか?」という質問に対して….。「伝える」ことだ。大変な危機である。「全社で売上60%を占める写真事業が音を立てて崩れ始めた。だから、これをやろう」と示した。危機的な状況でこう言えば、反対する者はいない。たとえてみれば、戦争で敵が攻めてきたときに「こうしよう」と言うのに対して、「それはいやだ」と言うものがいないのと同じだ。経営は民主主義ではできない。多数決で決めるものではない。自分が真っ先に飛び出すことだ。そうすれば皆がついてくる。
・「そうは言っても、考えるばかりで身体が付いてこないサラリーマン経営者が多い。どうすればできるのか?」という質問に対して….。まるで自分が考えずに動いたと思われたようだが、決してそうではない。1年半かけて、自社の強み・成長性・競争力などを整理し、考えに考え抜いた。そういう読みが一番大切なのだ。そしてリーダーは、決めたら、やる。「断固として、やる!」ということだ。自分はアメフトで闘争心を培ってきた。このような体験がよかったのかもしれない。
・「間接部門の生産性についてどう思うか?」という質問に対して….。戦後の日本の成長は、間接部門であるホワイトカラーが支えたのは間違いない。しかし今は間接部門が増えすぎてしまっている。もっと減らしてスリムにし、創造的な目標を与えるべきだ。
古森会長の講演をお聞きするのは今回が初めてでしたが、器の大きさを感じました。
同時に、存亡の危機を乗り切ったのも、古森会長のリーダーシップと、それに応えた社員の方々のご尽力の結果だと実感しました。
短期利益に陥り勝ちな米国型経営と、日本型経営の違いの一面を教えていただいた講演でもありました。
残りの2日目の様子は、また後日ご紹介します。