現代においても、いわゆる現代文明に染まらず、原始的社会で狩猟生活をしている人達がいます。
我々は知らず知らずのうちに、彼らよりも現代文明の中で生きている我々の方が知的に優れていると思い勝ちです。
しかし、果たしてこれは本当でしょうか?
ジャレド・ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」の中で、これに対する一つの回答が書かれています。
著者は、33年間ニューギニア人たちといっしょに野外研究生活をしてきた経験から、以下のように述べています。
—-(以下、引用)—-
周囲の物事や人びとに対する関心も、それを表現する能力においても、ニューギニア人の方が上であると思った。よく知らない場所の地図を頭の中に描くといった、脳のはたらきを表すような作業については、彼らのほうが西洋人よりもずっとうまくこなせるように思える。
(中略)
ニューギニア人のほうが西洋人よりも頭がいいと私が感じる理由は二つある。
(中略)
ニューギニア人のおもな死因は昔から、殺人であったり、しょっちゅう起こる部族間の衝突であったり、事故や飢えであった。こうした社会では、頭のいい人間のほうが頭のよくない人間よりも、それらの死因から逃れやすかったといえる。しかし(主な死因が疫病であった)ヨーロッパ社会では、疫病で死ぬかどうかの決め手は、頭のよさではなく、疫病に対する抵抗力を遺伝的に持っているかどうかであった。….(中略)….つまり、頭のいい人間の遺伝子が自然淘汰で生き残るためのレースは、ニューギニア社会のほうがヨーロッパ社会よりもおそらく過酷だったのである。
二番目の理由は、…(中略)…現代のヨーロッパやアメリカの子供たちが受動的に時間を過ごしていることにある。……テレビは平均して一日七時間はつけっぱなしである。これに対して、ニューギニアの子供たちは、受動的な娯楽で楽しみぜいたくにはほとんど恵まれていない。たいへいの場合、彼らは他の子供たちや大人と会話したり遊んだりして、積極的に時間を過ごしている。子供の知性の発達を研究する人びとは、かならずといっていいほど刺激的な活動の大切さを指摘する。子供時代に刺激的な活動が不足すると、知的発育の阻害が避けられないとも指摘している。これが、ニューギニア人のほうが西洋人よりも平均して頭がいいと思われる状況に貢献している非遺伝的な理由である。
—-(以上、引用)—-
完成されたシステムの中で頭のよさ・よくなさの違いで生存が脅かされることもなく、かつ、受動的に時間を過ごしている人間の方が、知的能力に劣っているということは、現代文明に生きる我々の未来に対する、大きな警鐘なのかもしれません。
今後のインターネットやITの発達を、いかに我々の能動的な活動に繋げていくのか….大きな課題かもしれません。
ちなみにこの本は、ではなぜ西洋人が文明を発達でき、知的に優れていたニューギニア人等の狩猟民族が文明を発達できなかったのかを、数万年間の人類の進化を検証しながら論じている大作です。
非常に「刺激」を受けています。