自然は豊かだけど宿泊体験は最悪。そんな山小屋の大変革

観光関係者とお話しすることが多いのですが、よくこんなお悩みをお聞きします。

「うちは、辺鄙なところにあるんです。交通の便が悪いので、お客が来ないんですよね」

しかし「辺鄙なところにある」と言う弱点は、引っ越さない限り変えられません。

実は弱点は、裏返すと、強みになります。そこで考えるべきなのは、「辺鄙のところにある」と言う制約条件を、逆手に取ることです。

辺鄙なところにある宿泊場所の中でも「山小屋」はトップクラスでしょう。

山小屋に行くには、電車で交通が不便な駅まで行き、多くの場合、バスに乗って登山道入り口に辿り着き、そこから何時間、場合によっては何日間もかけて、歩き続ける必要があります。

そうやって到着した山小屋では、そこでしか得られない圧倒的に豊かな自然の体験ができます。一方で「不満の宝庫」でもあります。

かく言う私も、ある山小屋へ泊まったことがあります。

山小屋に泊まるのは初体験でしたが、当時「革命的に快適な山小屋」と言われた、とある山小屋でした。

ちょうど紅葉が1年で最も美しい時期で、登山道や山小屋から見た景色には、本当に心が洗われました。下界から隔絶した世界なので空気が澄み、夜になると満天の星空を堪能できました。

しかしそんな山小屋も、宿泊施設としては最悪でした。

まずお手洗いが、ここに書けないほどあまりにも汚い。使うのを躊躇するほどです。できるだけガマンしました。

登山で汗をかいたのですが、風呂もシャワーもなく、当然ながらガマン。ネットにもつながりません。

食事はカツカレーでした。ペラペラに薄いカツが乗っています。なにしろ山小屋です。文句は言えません。食事があるだけで満足すべきです。そう考えると、自然と美味しく感じました。

美しい紅葉を見るために山小屋には登山客が大勢泊まっています。でも個室なんてありません。どうするかというと、広めの部屋に100人ぐらいで雑魚寝するわけです。

私のすぐ隣で、全く知らないおじさんがとても大きなイビキを立ててスヤスヤと寝てます。おかげで一睡もできませんでした。かく言う私も、他の人からは「知らないおじさんが隣で寝ていて、気が休まらず、寝られない」と思われているはずです。お互い様です。

景色は実に美しく、山小屋の人も実に親切。でも宿泊体験は残念ながら最悪でした。

翌朝の早朝、私と同様に一睡も出来なかった妻は、登山コースを歩きながら、「徹夜明けで、危険な崖を歩くのはイヤ。もう泊まりたくない…」と涙目でした。

他では決して得られない豊かな自然体験ができるのですが、私の場合、体験価値のマイナス分がプラス分を上回っていました。それから山小屋には二度と行かなくなりました。

大自然の中にある山小屋は、登山客にとって実に有り難い存在です。一方で不満の宝庫でもあります。そして山小屋に泊まる大多数の登山客は、それを受け入れているようです。

「だって、山小屋ってそういうもんでしょ。あるだけで有り難い存在なんだよ」

ここに目をつけたのが、星野リゾートです。

2025年5月、星野リゾートは『登山者向けホテル「ルーシー」の展開を始める』と発表しました。9月に「LUCY尾瀬鳩待」(群馬県片品村)を開業します。

同社・星野佳路代表は2025/5/26の日本経済新聞のインタビューで、こう語っています。

「日本の自然はスイスやカナダと変わらない豊かさがある。自然観光を強くしていく上で何ができるか考えて、出てきたのが山のホテルの改革だ」

「山小屋はWiFiやシャワーがなく、知らない人と同じ空間で寝なければならない。現代の個人旅行者にとって抵抗感のある宿泊スタイルが残っている。最低限の設備があれば、山に行きたい人は相当数いる」

これは、まさに新規事業の成功パターンです。

新規事業で成功するには「皆が本当は欲しがっているけど、ありそうでないもの」を提供することです。

そこで新規事業に挑戦する多くの人は、こう考えがちです。

「多くの人が困っている課題って、ないかな?」

このパターンでは、新規事業の種はなかなか見つかりません。

実は見つけるべきは、多数派の意見ではなく「違和感がある少数意見」です。

山小屋は実は不満の宝庫でした。でも世の中のほとんどの人は、山小屋に泊まった経験がありません。私も人生で1回だけです。「山小屋の宿泊体験」について意見を持つ人は、そもそも少ないのです。

そして山小屋に頻繁に泊まる登山客の多くは、「辺鄙な山奥に宿泊施設があるだけで、有り難い。山小屋ってそういうもんでしょ」と思っています。

こうして「宿泊体験は最悪」という不満はあったものの、この不満は無視され続けていました。だから山小屋は山小屋のまま、変わりませんでした。(ただ一部にはお風呂に入れる山小屋もあるそうですが)

かくして「山小屋の宿泊体験を、普通のホテル並にして欲しい」という少数派の意見は、「ムリムリ。山小屋ってそういうもので、あるだけで有り難い存在なんだ。嫌なら登山しなきゃいい」という山小屋に泊まる多数派の登山客の意見に、埋もれていたわけです。

まさに「違和感ある少数意見」だったわけです。

これは考えてみれば、当たり前のことです。これまで山小屋の顧客は、山登りに慣れた「登山客」。彼らにとっては山小屋の不便さは当たり前のこと。だから私たちが不満に感じたあの山小屋でも、登山客からは「革命的に快適」と言われたわけです。

しかしそれは「登山客にとっての山小屋」です。

登山客ではなく、普通のホテルを標準に考える人は、山小屋の宿泊客の中では少数派でした。

この少数意見に応えられれば、「皆が本当は欲しがっているけど、ありそうでないもの」の創造につながって、新たな市場を生み出せる可能性が出てきます。

実際に星野リゾートの登山者向けホテル「ルーシー」は、この課題に真正面から取り組んでいます。

同社のLUCY紹介サイトによると、

①プライベートな寝室
②いつもの温泉洗浄トイレ
③シャワー&パウダールーム
④肉・魚・卵の贅沢ごはん
⑤ホテル内にコンビニ
⑥充電・WiFi無制限

…といった環境が用意されているそうです。まさに「普通のホテル並」。山小屋としては、これこそ本当に革命的です。

もちろんこれが成功するかどうかは、実際に始めてみないとわかりません。

しかし新規事業には、成功確率を上げるためのパターンがあります。星野リゾートは、この成功パターンに則って挑戦を続けているのです。

同記事の最後で、星野代表はこのように述べています。

「経営判断には慎重さよりも俊敏性が必要だと感じている。事業を引き継いだ1990年代以降長らくデフレの時代で、迷うことは正しいことだった。だがインフレ時代に変わりつつある今、判断をためらえば建設費や人件費がさらに上がり不利になる。間違えてもいいから、素早く物事を決断し実行していく経営に切り替えなければいけない」

実際、同社は「旅のテンションを上げる都市型観光ホテル」というコンセプトの「OMO」や、20〜30代向けに「居酒屋以上、旅未満。ルーズに過ごせるホテル」というコンセプトの「BEB」といった、新たなブランドホテルに次々と挑戦しています。

インフレの時代になり、変化はさらに速まっています。今こそ、リスクを取り、迅速に判断し、行動する必要があるのです。

 

■当コラムは、毎週メルマガでお届けしています。ご登録はこちらへ。