私は外資系企業に勤務していた時、米国人の同僚から真剣に相談されたことがあります。
「なんで日本人は、上のポジションの人間でも平気でウソをつくんだ?」
これは、日本企業で近年頻発する不祥事隠しや偽装問題と深い関係があるように思います。その理由を、社会心理学者である山岸俊男先生の著書『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』を参考にしながら、考えてみたいと思います。
日本の組織は「ムラ社会」と言われています。江戸時代、山奥の農村の田植えや稲刈りの作業は村人が総出で行いました。困った時は「おたがいさま」と助け合い、戸締まりもしません。実に安心な社会です。
農村社会では悪いことや非協力的な行動は損をします。田植えを手伝わないと、困った時に誰も助けてくれません。最悪、村八分や追放です。協力し合う方がお互いにトク。そこで農村ではメンバーを互いを監視し合い、何かあると村八分などで制裁する仕組みを作りました。
同じ村の人間ならば「同じ村の衆だから、悪さはしないだろう」と安心できます。しかしヨソ者は警戒して、場合によっては村に入れずに追い返してしまいます。ムラ社会の人間は、アカの他人を信用しないのです。理由は村八分のような制裁システムが効かないからです。
言い換えればムラ社会は「安心社会」。たとえ個人同士では信頼がなくても、社会全体では制裁システムなどで信用を担保する仕組みがある安心な社会(「同じ村の衆なら安心」)でした。その延長である日本企業も「安心社会」でした。「安心社会」は「閉鎖社会」でもあります。
一方で、私たちのビジネス環境は、20年前から激変しました。いわゆる「経済のグローバル化」です。オープンな経営が求められるようになりました。
オープンな経営が求められる米国系の社会は、都会をイメージしてみるとわかると思います。都会はアカの他人ばかりです。ですので個人同士の信頼を確立する必要があります。そのために「フェアであること」が求められるので、オープンな経営をすることになります。言い換えれば、個人同士の信頼が前提となる「信頼社会」なのです。
いまや日本企業は「信頼社会」に合ったオープンでフェアな経営が求められています。でも日本企業は「安心社会」の考え方から変わっていません。安心社会ではアカの他人を信じません。だから都合の悪い情報は身内だけに留めて隠しがちです。
一方で信頼社会の大前提は、アカの他人を信じること。だから必要な場では、都合が悪い情報もあえてオープンにします。オープンにすべき時に都合の悪い情報を隠す行為は、不誠実でウソつきの行為なのです。
冒頭の米国人同僚の嘆きも、これが理由です。日本人が都合の悪い情報を共有せずに、自力解決を図ろうとするために「ウソつき」に見えてしまうのです。この結果、責任感が強く、真面目で努力家の日本人ほどウソつきに見えてしまいます。「ウソつき」と言われた日本人には実に不本意なことです。しかしこれが現実です。
本来は信頼社会では、都合の悪い情報もチームで共有し、解決策をオープンに議論すべきなのです。
不祥事隠しや偽装問題を起こす日本企業も、都合が悪い情報を隠す点で全く同じです。安心社会から信頼社会へのマインド・チェンジができていないのです。
信頼社会で生きるには、不信を出発点にするのはNG。不信の念を排除し、まず他人を信頼すること。まずは他人を信頼しない限り、信頼社会では自分も信頼されないのです。
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