「みんなの意見は案外正しい」という考え方がある一方で、「ガリレオ・ガリレイの時代に集合知があっても、地球が回っていることにはならなかった」という考え方もあります。
「2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?」に「受け売りですが」と書いてあったことなので、受け売りの受け売りですが….。
一方で、例えば、原発に関する議論では、原発反対意見に対し、原発反対意見に対する反対意見が出されたりして、我々は両方を見て判断できます。
インターネットが普及する前は、情報の非対称性があったため、我々の多くは、より情報発信力が強い(つまりお金を持っている)側の意見にしか接することが出来ませんでした。
このような議論を進めるにあたって、両方の意見を見た上で判断できる点は、インターネットの素晴らしさだと思います。
しかし、そのためには、我々にはより高い成熟が求められます。つまり、一方的な情報や全体のムードに泳がされず、自分自身で考えて判断することが必要になります。
一方で、仮にガリレオ・ガリレイの時代にインターネットのように様々な人の意見や研究成果をオープンに誰でも見れる仕組みがあったとして、大衆は「地球が回っている」という判断をしたでしょうか?
必ずしもそうではないような気がします。
私達は、個人的に深刻な問題を抱えている場合には様々な情報を照らし合わせて判断します。
しかしこんな我々でも、郵政民営化で争った先の選挙でもあったように、大衆の一員になると、「シンプルで分かり易いかどうか」で判断しがちなのではないでしょうか?
「みんなの意見は案外正しい」でも、集団が賢い判断をする可能性を高めるのは、多様性・独立性・分散性等の条件が満たすことが条件であると述べています。
自分自身に当てはめて考えても、あらゆる行動について、世の中の情報をくまなく調べた上で、自分自身でしっかり考えて判断できるかというと、ちょっときつい話です。 場面によっては、シンプルで分かり易い話に、表面的な理解で納得してモノを買ったり、という行動を取っていると思います。
世の中一般も同様なのではないでしょうか?
「みんなの意見は案外正しい」の「案外」は、非常に言いえて妙な部分と思います。「必ず正しい」とは言っていないのですね。
こんにちは。
時折読ませていただいてます。
>大衆は「地球が回っている」という判断をしたでしょうか?
>必ずしもそうではないような気がします。
どうなんでしょう?
当時はそれこそ情報の非対称性の最たる時代だったと思いますが、ガリレオの異端な意見も完全に抹殺されることなく残りました。
現在でも、「擬似科学」に関する情報もまことしやかに流れています。
非凡な天才はいつの世でもひょっこりあらわれるのだと思いますが、集合知を可能とするシステムにより、その英知が燎原の火の如く広がる可能性もあると思います(消費も早いでしょうけど)。楽観的に過ぎますでしょうか。
ひとぴんさん、
コメントありがとうございました。
当時は裁判沙汰にもなりましたし、彼の主張も科学論文だけではなく裁判記録として後世に残り、当時の異端な考え方もおっしゃる通り抹殺されることなく時間とともに徐々に世の中に受け入れられたのでしょうね。
集合知を可能とするシステムが、英知を燎原の火の如く広げることを可能とすることは素晴らしいことだと思います。