遅めの夏休みを利用して、昨晩から読み始め、今朝も読み続けて、一気に読み切りました。
『夜と霧 新版』(ヴィクトール・E・フランクル著、池田香代子訳、みすず書房)
淡々と事実が綴られる文章に接して、生きる意味、死生観、人間が持つ弱さと強さについて、色々と考えさせられました。
特に生きることについて書かれた、下記の文章には、圧倒的されます。
—(以下、引用)—-
p.129-130より
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。…もういいかげん、生きることの意味を問うのをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
….ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
p.134より
自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。
–(以上、引用)—
この文章は、人間の尊厳がすべて奪われた、考えられる限り最悪の状況に置かれた被収容者に対して述べられた文章であることを思い起こす必要があります。
豊かな一方で様々な課題に直面している現代日本で生きる私たちに向けて、「生きることへの問い」を迫っています。
—(以下、引用)—
p.110より
…たとえほんのひと握りあったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまいかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。
—(以上、引用)—
自分の人生は、他の誰でもない自分自身だけのもの。これをどのように創っていくのかも、自分だけに与えられた自由です。
他にもここで引用したい珠玉の言葉が沢山ありました。
この本に出会えたことに感謝です。
なお、本書は1977年に刊行された原典の新版を訳して、2002年に出版した新訳本です。
実はもう一冊、『夜と霧――ドイツ強制収容所の記録』(霜山徳爾訳)があります。これは1947年に書かれた原典の翻訳です。実はこちらの本は先に購入していましたが、途中で読みかけです。
比較すると、新訳はとても読みやすくなっている反面、旧訳にあった約70ページ分の資料や写真等の歴史背景は割愛されています。
エッセンスは新訳ですぐに得られると思いますが、旧訳だとさらに細かいニュアンスも掴めるかと思います。改めて旧訳もじっくり読み比べたいと思います。
『夜と霧』とどちらから始めようかちょっと悩んで、『「生きる意味」を求めて』のほうを今回は読んでみました。TanakaJunkoさんへのコメントにも書いたのですが、フランクルが紹介しているトルストイもちょっと興味あるので、そこを回ってから『夜と霧』にも挑戦しなくてはですね。
http://blogs.itmedia.co.jp/yasusasaki/2013/12/post-86e9.html#comment-72095363
佐々木さん、コメントありがとうございました。
私の方は『「生きる意味」を求めて』をまだ読んでおりません。(トルストイもまだ)
そのうち是非読んでみたいですね。