歎異抄に、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉があります。
ジョージ秋山の3作品を読んで、この言葉の意味を考えました。
ジョージ秋山の作品は、小学生の頃はとても苦手でした。例えば全編カニバリズム(人肉食)が繰り広げられる「アシュラ」はおどろおどろしい世界が描かれ、当時小学校2−3年だった私はページを見るのも怖く感じました。
先日、ジョージ秋山の作品「捨てがたき人々」が映画化されるというブログを読みました。このブログでは「『捨てがたき人々』は個人的にジョージ秋山の最高作品と思っている」と紹介されていました。
これがきっかけで「捨てがたき人々」を購入して読了。その勢いで「銭ゲバ」「アシュラ」も立て続けに購入。
3作品で分厚い文庫本6冊です。改めてこの歳になってジョージ秋山の3作品を一気に読み切ってしまいました。
時代背景はそれぞれ異なります。
「銭ゲバ」…昭和の日本 (1970-1971年)
「アシュラ」…飢饉に見舞われた中世の日本 (1970-1971年)
「捨てがたき人々」…1990年代、日本の地方都市 (1997-1999年)
いずれの作品も、人間の弱さやグロテスクなエゴがテーマであり、主人公は悪人です。
「銭ゲバ」の主人公・蒲郡風太郎は、貧乏のため母を死なせてしまったトラウマを抱えて「銭のために生きる」と決め、手段を選ばずに殺人などを犯し、会社社長に納まり、政治家になります。
「アシュラ」の主人公・アシュラは、赤ん坊の頃に飢えを満たそうとした母親に火に投げ込まれて運良く逃れ、人肉を食いながら育ち、人を殺めていきます。
「捨てがたき人々」の主人公・狸穴勇介は、犯罪スレスレのことを行い、自堕落な生活を送っています。
一方で私は平和で豊かな現代日本に生まれ、ありがたいことに幸せな家庭で育ってきました。
しかし、…
蒲郡風太郎のように、どうしようもない極貧の中で育ち、お金がないために家族を死なせてしまったら、自分はどのように生きるのか?
アシュラのように飢饉の中世日本に生まれ、食べ物がまったくない状況に陥り、赤ん坊の頃に母親に食われかける状況を経験したら、どのようになるのか?
あるいは狸穴勇介のように、生まれもった素質や家庭環境に恵まれず、自堕落な人生に陥ってしまったら、どうなのか?
どの主人公も周りの人々を苦しめていますが、自身も大きなトラウマを抱えて、繰り返し「生まれてこない方がよかった」という台詞を語り、繰り返し自問自答し、その状況からなかなか抜け出せず、苦しみ抜いています。
「自分が同じ状況に陥っていないのは、とても恵まれた偶然なのかもしれない」と考えると、主人公たちが抱えているエゴや悩みが、ヒリヒリと痛いほど伝わってきました。
そして思い出したのが、冒頭の「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉でした。
人間の深いエゴを容赦なくえぐって見せてくる、かなり重くズーンと響く作品群です。万人にはお勧めできませんが、興味がある方にはいわゆる「大人買い」する価値がある本だと思います。