誰もが非難されるのを恐れる時代。ブログはどうあるべきか?


ITmediaの掲載記事「日本のメーカーが「ルンバ」を作れない理由 国内製造業の弱点とは」 で、日本メーカーがルンバ発売から10年以上経過しても同様の製品を製造しない理由として、以下のように紹介されています。

—(以下、引用)—

….商品化しない理由について「100%の安全性を確保できない」と説明する。

(中略)

家庭で使う家電製品の第一条件は「安全性」だ。一方、日本の製造業は「リスクを極端に嫌う」傾向が強いため、開発の技術力がありながら、獲得できる市場をみすみす逃しているケースも指摘されている。

—(以上、引用)—

また、毎日.jpの記事「ソーシャルメディアウイーク:田原総一朗氏らが基調対論 ツイッターでジャーナリズム「変わった」」に、以下のような記述がありました。

—(以下、引用)—

また田原氏は、東日本大震災でテレビなどのメディアが徹底して遺体を映さなかった例、テレビ番組の内容について触れ「(報道が)無難になっている」「コンテンツに刺激がなくつまらなくなっている」と批判。

—(以上、引用)—

二つの記事は全く別の事象について書かれていますが、共通項があります。

消費者から糾弾されるリスクを、極度に恐れている点です。

もしかしたらこのような企業の姿勢は、リスク回避型の社会を形作っているのではないか、と感じました。

 

ただ自分のことをふり返っても、正直に申し上げてこれらは他人事とは思えません。

例えばこの私のブログ。本名と勤務先名を出していることもあり、炎上して勤務先に迷惑をかけることは、私にとって最も避けたいリスクです。そのため書く内容は「無難にならないように」と心がけてはいるものの、私のブログを見て傷つく人はいないように常に考えて書いています。

 

一方で、田原総一朗さんと佐々木俊尚さんの対談では、ソーシャルメディアが社会を再結成・再構築し、「健全な論戦」を見える化していく可能性を述べておられます。

無難になることを避けて、対立することを恐れず、健全な論戦をしていく。

そのためには、ブログはどうあるべきなのか、….。

考えてしまいました。

 

やはりポイントは、あくまで論拠を明確にして自分の意見を述べて、間違った場合は間違いを潔く認める、という当たり前のことなのかもしれません。