今泉さんが『「空気が読めない」という時の「空気」の研究』で、大木さんが『買いたくなる空気』で、それぞれ空気について書かれています。
私は学生の頃から「日本人とは何か?」は大きなテーマでしたので、昔から山本七平を愛読していました。彼の著書の中でも、「『空気』の研究」は好きな本です。
ここで議論されているように、日本では結構重要なことがその場の「空気」で決まったりするのですよね。
これは、いい面と悪い面があると思います。
いい面ですが、ある程度の時間をかけて全体で「コンセンサス」という「空気」が出来上がり、一方向にベクトルがセットされて突き進むと、恐らく日本は多くの分野で世界最強なのではないでしょうか?
古くは富国強兵。1960年代から80年代は高度経済成長。いずれも見事に国全体のベクトルが合わさりました。
1960年に池田内閣が出した「国民所得倍増計画」が、現在も高度経済成長の原点として語られるのは、これが当時の「空気」を作っていたからではないでしょうか?
一方の悪い面ですが、この「空気」が作るベクトルが不合理な方向に進むと壮絶な破局をもたらします。中華事変から太平洋戦争までに至る道がまさにその例だと思います。最近では「土地と株価は上がり続ける」という空気で日本中が踊っていたバブル景気がその例になるのではないでしょうか?
また「空気に合わない」モノを村八分にしたり、つるし上げたりする傾向も「空気」が支配するダークサイドだと思います。ワイドショーネタになるものに、これが多いですね。
つまり、空気の存在により、…
- 全体が均質であり同じ方向に一斉に進むので、課題が合意された後の効率は極めてよい
- 一方で、多様性を持たないために、不合理な方向に進んでしまっても修正するためのコンセンサスを得るのが難しく、修正できないまま全体が破綻してしまうことがある
- 均質性を乱すものは、「空気に合わない」として除外する傾向がある
ということではないか、と思います。結論だけ書くと、日本社会の特質として一般的に従来から言われてきたことになりますが、「空気」というレンズを通して考えると、分かり易いように思います。
一方で、多様性を持ったコミュニティは、冗長性が高いため効率は悪いものの、このような形での破綻は起きにくいのではないでしょうか?
「和を以って貴しと為す」日本社会では、ヒトラーのような独裁者は生まれませんが、逆に特定の個人が最終責任を持たない「全体に効し難い空気」が全体主義的な働きをしているように思います。
改めて考えると、日本人は「ヤバイぞ。このままでは日本はいけない」という空気が全体を支配している時は、謙虚に課題を捕らえており、結果的にうまく行くことが多いようです。
逆に「日本はすごいのだ。他国は何するものぞ」という空気が全体を支配し始めると、課題が見えなくなっており、逆にヤバイ方向に進み始めているような気がします。バブルの頃や戦争初期はこんな感じですね。
戦後、日本は外交問題で他国と対立するのを避けて、国民全体であまり怒らなくなったように思います。最近では竹島やテポドン2号等の問題は、国によってはそのまま戦争を起こしかねない重大問題ですが、日本人全体はデモをするでもなく、感情的にならず、理性的に判断しているように思います。
日本はいったんスイッチが入ると国全体がその空気に包まれて突っ走ってしまう傾向があるので、「何故怒らないのだろう?」と他の国の人々に不思議がられる位がちょうどよいのかもしれません。戦後の日本人全体の集合意識として、「国全体が感情的になると、ロクなことはない」ということが共有されているような気がします。
このような日本人の特質に「多様性を許容する」という「空気」を加えることで、二項対立により危機的な状況にある世界の中で大きな貢献できるのではないでしょうか?
ただし、多様性のある社会が「空気」を共有できるかどうか、という点は大きなチャレンジですが。
永井さん、
TBをありがとうございます。
「空気」の功罪を的確に分析していらっしゃいますね。脱帽です。。。(^^;
>逆に特定の個人が最終責任を持たない「全体に効し難い空気」が全体主義的な働きをしているように思います。
「空気」が意思決定する世界では、おっしゃるように、責任をとる個人が存在しないんですね。集合的無責任とでもいうべき状況が出現します。
誰かが責任を取らなければならない場合は、連帯責任ということになるのでしょうか。
近々自分のブログで、日本企業のイノベーションへの取組には、「空気」が活用できるのではないかということを書くつもりですが、この集合的無責任をどう取り扱ったらいいのか、考えあぐねています。
今泉さん、コメントありがとうございました。
「空気」のイノベーションへの活用、面白そうですね。今泉さんのブログ楽しみにしています。
「全体責任」は「全体無責任」にも繋がりかねないと思いますが、集合意識が支配するコミュニティでは仕方がない面もあるかもしれません。
しかし、「全体責任」を組織として正式に標榜するのは、コミュニティが不合理な方向に進んだ場合の修正を責任を持って行うのが極めて難しくなるので、できれば避けた方がよいかもしれませんね。
例えば、宮沢元首相は首相だった90年代前半当時に銀行への公的資金注入を「そんなことがとても言えない空気」があったために実現できず、これが尾を引いて10年後に金融破綻を起こしかけました。
責任者の首相がいてもこのようなことが起こるのですから、責任者が明確でない組織はもっとリスクを抱えるように思います。
一方で、割と緩い感じでリーダーを決めておいて、空気で組織を活性化しているケースもよくありますね。ポイントは不合理的な方向に全体が進んでしまうリスクをどのようにヘッジするか、ということかなぁ、と思ったりしています。
できれば私も、またこのテーマでブログに書いてみたいと思います。
ん〜、日本に独裁者は現れないですかね? 先の大戦では天皇に威を借りた独裁者「たち」がいたように思いますし、小泉さんはまさに独裁者でしょう。
空気を重んじる伝統は突出した人間を許さないものである一方、突出しすぎた人間には盲従する傾向があるように感じています(ドイツが、そうであったように思います)
誰かに従っていれば物事がそれなりに進むならそれでいい、というメンタリティの方々が大半を占めているのが実情でしょうし(これは日本に限ったものでもないですが)
ただ言を翻すようでアレなのですが、私が心配なのは、最近の日本は空気を重んじすぎているのではないか?ということです。
より具体的に言えば、均質化した社会は地滑り的に衰退する可能性も有しているのでは?との不安です。そこで都合よく「突出しすぎた存在」が生まれてくれればいいのでしょうが、そうでなければ…
たななさん、コメントありがとうございました。
東京裁判では、連合軍は日本にはヒットラーやムッソリーニに相当する独裁者が存在しなかったことを知り、驚いたようですね。
>>私が心配なのは、最近の日本は空気を重んじすぎているのではないか?ということです。
昔も今も同じかもしれませんね。
>>より具体的に言えば、均質化した社会は地滑り的に衰退する可能性も有しているのでは?との不安です。
同感です。均質化した社会は効率的ですが、多様性のある社会と比べてもろいのではないでしょうか?