先日ご紹介した合唱の演奏会では、モーツァルトのレクイエムと魔笛の練習を半年間続けました。
この練習の際に、指揮の先生が「モーツァルトの書簡」について何回かお話されました。
モーツァルトが友人に宛てた書簡の中に、「どのような状況であっても、音楽は美しく楽しいものでなければならない。他人に不快な思いをさせてはならない」という文章があります。
晩年恵まれなかったと言われる状況で生み出された作品でも、モーツァルトの音楽は、低音でもあくまで清らかに、高音でも割れずに、早いテンポでも絶妙なリズムやハーモニーを保っています。
大変僭越ですけれども、私のライフワークである写真に対する考え方と全く同じである、ということに気づき、「ナルホド!」と思いました。
土門拳の流れをくむリアリズム写真は「絶対非演出の絶対スナップ」という方法論を掲げています。私もこれには全く同感で、写真に作為を行うことには強い抵抗感を持っています。
一方で、「人様に見せる写真は美しくなければならない」とも思っています。
モーツァルトの書簡をきっかけに改めて考えてみると、写真をセレクションする私の基準の一つは、「この作品は美しいかどうか?」
現実と格闘しているジャーナリストやドキュメンタリーの写真家からすると、この考え方は大きな違和感があるかもしれません。岡本太郎も、「芸術とは美しくあってはならない」と言っています。
一方で、戦場ドキュメンタリー写真でも、ナクトウェイのように深い芸術的な美しさをたたえた写真もあります。ナクトウェイ自身、現場で命をかけて格闘していますが、このような写真には本当に心を動かされます。
世の中は、モーツァルトが大好きという人と、モーツァルトはあまり好きでないという人に分かるようですが、その根本には、人生観の違いがあるように思います。
この人生観の違いは、ビジネスの世界でも存在するのかもしれません。
芸術をビジネスに当てはめるというのは、とても面白い視点ですね。
私は、モーツァルトが美しいのは、才能に加え、技法という意味での時代背景と、エンターテイナーだったということもあると思っています。
現代音楽の作曲家を考えると、エンターテイメントになりにくいのは確かですし、それは岡本太郎と同様、現代芸術の特徴と言えるのかもしれません。自己表現であり、わかる人がわかればいいというか…。もしかしたらそれが本当の意味での芸術なのかもしれませんが。
すみません、ちょっと生意気ですね。
aoshimaさん、
芸術は自己表現だと思いますが、同じ観点でビジネスや生活を考えてみると、日々の生活が楽しくなりそうですね。
恐らくあの時代にモーツァルトの音楽を聴いた人達の衝撃は大きかったのではないでしょうか?その意味でもおっしゃるようにエンターテイナーだったのでしょうね。
世の中に広くエンターテイメントが広がっている現代では、エンターテイメントとしての芸術は成り立ちにくいのかもしれません。
蛇足ですが、私の中では、映画「アマデウス」でのモーツァルトの印象があまりに強烈で、トム・ハルス演じるモーツァルトのイメージが固定化してしまっているのですが、実際のモーツァルトの晩年は貧困だったのではなく裕福だったという最近の調査もあるようですネ。