我々は本質的なところでコミュニケーションできなくなっているのかもしれない


『「僕たちの担任やってください」体罰の教諭復職』という記事を読むと、今の生徒達や教師も、実際には根底の部分では昔と変わっていないことが分かりますね。

このように、相手の心に真正面から正対して接してくれる教師に教えられる生徒は、幸せです。

先日のエントリー『教師と生徒が平等な訳はない』で、生徒達に毅然とした態度を取ることができていないことを、その後のエントリー『生徒が教師と平等と思う理由』では、生徒達が教師に友達感覚を求めていることを書きました。

この記事を読んでから改めて考えてみると、教師、生徒、保護者の間のコミュニケーションのすれ違いが問題の根本にあるように思います。

現代では、ITが世の中に普及し様々なコミュニケーション手段が用意されています。

しかし、この一連の問題を見ると、問題の根本には、我々が本質的なところで昔よりもコミュニケーションが出来なくなりつつことがあるではないか、とも思えます。

このような時代、田坂広志さんもおっしゃっているように、「心得」を持つことがますます大切になってきているのではないでしょうか?

我々は本質的なところでコミュニケーションできなくなっているのかもしれない」への3件のフィードバック

  1. 正直なところ、このような対応は田舎の学校だったので認められたのではないかと感じています。やはり複数の生徒を平手打ちする教師が評価されるということは、避けられるべきだと思っています。

  2. 安易に体罰を認めるわけではないが、手法としてはありだと思います。もちろん、相手があっての話なので、例え子供だろうがPTAだろうが、OKと認めたのであれば、手法としては良いことだと思います。
    反対される方が多いのも理解できますが、対象となる当人が認めればよいのでは?
    逆に、本件から安易に体罰OKとみて、うわべだけをまねする教師がでてくることが、心配です。
    赴任して短期間であっても、子供・父兄の信頼を得ているから、また、手段ではなく意図が通じているからこそ、美談なのでは?
    自分の子供が、この当事者(クラス)であった場合で、書かれている内容が事実であれば、署名をしています。

  3. SKさん、二児の父さん、
    コメントありがとうございました。
    確かに、話が単純化されて、うわべだけを真似て、平手打ちする教師が評価されてしまうのはよくないですね。
    マスコミを通じて話が単純化されてしまう現代では、この点大きなリスクがあると思います。

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