民主主義は万能でしょうか?
本日(2/18)の日本経済新聞の記事『市場と民主主義の試練(中)「開発独裁」よみがえる亡霊』では、新興国における非民主的動きについて書かれています。
–(以下、引用)—
・ロシアでは、2005年あたりからプーチン大統領が報道介入など強権的姿勢を強め、民主主義が後退した一方で、プーチン大統領の人気は圧倒的。2008年1月の調査では「最も信頼できる政治家」として同大統領を挙げる回答が65%、1年前の49%から大幅に伸びた。
・原油高で国内景気が高揚する中、国内外で「強い姿勢」を貫くプーチンに、ロシア人の多くが「国民の誇りと自信を回復してくれた」と評価。その熱狂を前に民主主義や自由の行く末を案じる声はかき消されがちだ。
・民主主義は意思決定に時間とコストがかかる。ならば、民主化を急ぐより、多少の非民主的要素は大目に見て、政策を迅速に実行する方がいい。八〇年代まで東南アジアで多く見られた“開発独裁”の亡霊が復活しつつあるかのようだ。ただ、歴史は人権問題や一部特権階級への富の集中など“開発独裁”が持つ危うさを示す。
・先行する国が後続のモデルとなるアジアの雁行(がんこう)型発展は揺らいでいる。成長と民主主義を世界に広めたグローバル化だが、経済競争が激化した結果、民主化を停滞させるという予期せぬ副作用も出始めたのかもしれない。
–(以上、引用)—
この記事は、新興国における民主主義の後退を憂慮した内容になっています。
一方で、英国首相だったウィンストン・チャーチルは、民主主義について、60年以上前の1947年11月に下院演説で以下のように語っています。
–(以下、引用)—
これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。
(Wikipediaの「民主主義」の項目から抜粋)
–(以上、引用)—
ノーベル文学賞を受賞したチャーチルならではのアイロニーに富んだ例えで、民主主義の本質をえぐっています。
宰相という責任ある立場であったにも関わらず、「民主主義とは万能ではない。しかし現時点ではベストな選択肢である」と喝破したのは、さすがと思います。
先日書いたエントリーにもあるように、例えば米国大統領選挙は、この民主主義の理念を実現すべく、1年以上の期間をかけて議論を重ね大統領を選んでいます。これには膨大なコスト、手間、時間がかかります。
考えてみれば、民主主義は18世紀から19世紀にかけて生まれた政治形態です。
100年前と比較すると、ITやインターネットの普及などにより、民意把握は比較にならないほど迅速かつ容易になりました。
さらに、現代は世界がフラット化し地域間の競争が激化しています。
このような時代背景で、民意を十分に把握した上でトップダウンで政策を実行していくような体制が現われてもおかしくはありません。
しかし考えてみれば、これも理想の君主による君主制の一形態であり、過去試されてきた様々な政治形態の一つに過ぎません。
民主主義に代わる次の新しい形態は、このような様々な新興国の試みの中から生まれてくるのかもしれません。
ただし、その過程で人権や格差問題が起こっていないかどうか、我々は常に注意深く見守っていく必要があると思います。
こんにちは。
前にNHK高校講座の世界史だったか、たまたま深夜に再放送をしていたのを見たとき、先生が「民主主義というのは(体制より)実践が大事」と話していてすごく印象的でした。(民主主義とは民度で質が左右される側面もありますが、それはさておき) 民主主義という体制を構築するよりもそれをいろんな場面で実践し続けていくことが大事だということだそうです。一部の政治家に任せっきりではなく、一般市民も監視や意見などそれなりに参加して努力していかないと・・・とその時に気づきました。
#漠然とした感想で恐縮です。
ご無沙汰しています。
「民主主義は「独裁」を生むための最適なシステムである」という主旨の発現がどこかにあったことを記憶しています。”民主主義=民意の反映”という教育が、公民(?)等で為されていますが、結局のところは多数決という暴力的手段に依存してしまうことに問題があるとの指摘だったと思います。やはり、「民主主義=民意代表による議会政治」で有効なシステムであるという短絡的な考えだけでなく、欠陥を修正する機能を持つことが重要ということですかね。。。残念ながら日本では、そこまで成熟していないとも感じますが。
(1)全会一致が大原則であり、その為に十二分な論議を必要とする。但し現実的妥協策として、少数意見の尊重を条件に過半数意見の採択を許可する → 財力・権力・暴力による数の占有で、論議を無視した過半数意見が罷り通る
(2)民衆の総意として運営されるが故に、その結果責任は等しく負う事とする → 赤信号みんなで渡れば怖くない状態で、誰も責任を取らない
せめて上記2点でも働けば民主主義はマシなシステムだと思うのですが、完全に形骸化しているので無意味ですね。個人的には政治であっても安定より変化を好むので、動乱の可能性を孕もうとも独裁政治によるダイナミックさを選びたいところです。
加山さん、
コメントありがとうございました。おっしゃる通り、衆愚政治というのは民主主義と表裏一体ですし、参加するメンバーの成熟度が問われる仕組みでもありますね。
つるたさん、
矛盾点の徹底的な議論を通じて、新しい解決策を目指すヘーゲルの弁証法的な考え方が、民主主義の背景にあると思います。その意味で、このような議論をカットして短絡的に多数決に持ち込むのは、つるたさんのご指摘の通り、民主主義的ではないと思います。
4eさん、
挙げられた二点、重要ですね。
幕末に新しい明治の体制をどうするかを坂本竜馬達が徹底的に議論していた際に、それまでの幕府がトップダウンで決める方法から、欧米の議会制民主主義のやり方を参考に、諸藩から知恵のある者を集めて議論して決めていく方法にしようということになったそうです。幕末の混迷の時期にも日本にもこのような仕組みを作れたのですから、時代が大きく変わっている今、そうできない理由はないですよね。