たった一人の反対で前に進めなくなる、過度な「個人の権利」の尊重の弊害


民主主義における「個人の権利」と、「公共の利益」は、時として相反します。

2011/05/08の日本経済新聞の記事「危機からの再出発(6)語られぬ『公共の利益』」で、このことについて、興味深い記述がありました。

—(以下、引用)—

 今回の原発事故で表面化した不安定な電力供給にも、用地取得の難しさが影を落としている。東西の電力を融通しあう中部電力東清水変電所。東電の電力不足対策に役立つはずだったが、送電線設備の用地買収が遅れ、本格稼働が予定の96年から2012年へと大きくずれ込んだ。

 政府の復興構想会議で委員を務める河野龍太郎(46、BNPパリバ証券)は話す。「日本は私権制限の議論をはばかってきたために、インフラ整備が進まず、望ましい改革も遅れ、得るべき利益を失った。日本全体にどんな得失があるか、正面から向き合うべき時だ」

(中略)

 生存権や表現の自由など基本的人権を尊重するのが民主主義だ。日本は戦前の軍国主義の反省もあって、とりわけ個人の権利を大切に扱ってきた。ただ、ややもすると、一人の反対で前に進めなくなる袋小路に陥っていたのも事実だ。

—(以上、引用)—

確かに日本社会では、「弱い人達は、大切にしよう」という主張がされると、それ以上の議論ができなくなり、思考停止状態に陥りがちです。

記事にあるように、軍国主義の行き過ぎた反省なのかもしれません。

しかし、個人の権利の過度な主張もまた、公共の利益を損うことも多いのは、様々な組織を運営していると実感するところではあります。

「ほぼ全員が賛成していたのに、一人だけが『私の事情を考えて欲しい!困る!』と強硬に反対したので、進められなかった」という経験をされた方、結構多いのではないでしょうか?

記事では、以下のように結んでいます。

—(以下、引用)—

 政治が難しい利害調整を避ける。先送りで傷口が広がる。巨額の借金も、長引くデフレも、無関係とは言い切れない。いまこそ悪癖を改め、怖がるだけで何もしない悪循環から抜け出す起点にすべきではないか。

 「優しい政治」「国民目線」といった言葉だけではない。臆せず難題と向き合い、真正面から解を探す。民主主義の強さが試される。

—(以上、引用)—

個人の権利、確かにとても大切です。

ただ、それだけを金科玉条のごとく守って思考停止状態になると、全体が少しずつ不幸になってしまいます。

記事にもあるように、「個人の権利」と「公共の利益」の利害調整という難題から逃げずに、最適解を探す。

今の日本だからこそ、為政者だけでなく、私たち一人一人にとっても、求められているのでしょうね。

 

たった一人の反対で前に進めなくなる、過度な「個人の権利」の尊重の弊害」への1件のフィードバック

  1. 「弱い人達は、大切にしよう」の場合はある意味とても単純な話で、本当に「公共の利益」があるなら社会は個人が被る不利益を上回る利益を得る訳だから、個人の不利益分を補償すればよいのです。それを避けようとするからこじれるのです。
    一方で「全然弱くない人達」が既得権を脅かされそうになると、その力を盾に声高に補償を求めることで、それ以上の議論ができなくなり、物事が前に進まないことも多いですね。

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