現在、亀田一家が世間からバッシングを受けています。
対内藤戦における亀田一家の行為の是非は別として、このように日本中からバッシングを受ける様子を見ると、江川卓のあの「空白の一日事件」を思い出します。1978年、30年近く前のことです。
江川はあの「空白の一日」以来、マスコミを全て敵に回し、長い期間に渡ってバッシングされ続けました。
江川のダーティイメージが払拭され始めたのは、1980年にクリーンなイメージの原辰徳が巨人に入団し、自身が16勝で最多勝を獲得した頃からではないかと思います。
元々、江川はひょうきんで明るい人柄ですが、このダーティイメージを払拭するためには周囲に色々と気遣いをする等、かなり苦労したようです。しかし、マスコミの江川バッシングが止むのに数年かかりました。
一方の亀田一家。対内藤戦での様々な行為により、マスコミからバッシングを受けています。
江川のケースと違うのは、一部のマスコミが亀田兄弟を担ぎ上げて話題作りをした点でしょう。そして、対内藤戦で全体の空気が反亀田一家になったことを契機に、亀田一家を担いでいなかったマスコミ各社が一斉にバッシングを始めた点です。
ネット上でも、マスコミ側がいくら削除申請しても、個人によってYouTube等にプロレス技や反則示唆の場面がひっきりなしにアップされる事態になり、掲示板でも反亀田一家のメッセージが相次ぎました。
大毅と父親のインタビューの放映後も、「反省していない」とばかりにさらに燃え上がりました。
しかし長男の興毅選手の80分間の謝罪インタビューで、インタビュー中は真摯な姿勢で対応した興毅選手と、それに対して様々な辛らつな質問をしたマスコミ各社の様子が放映されると、今度は「マスコミもおかしい」という空気が変わってきました。
これで亀田一家に対する世間の見方がポジティブになった訳ではありません。しかし、わずか数週間で世間全体の空気が変わってくるという現象は、少なくとも一方的なバッシングが長期間続いた江川事件の頃はなかったのではないかと思います。
違いはやはりネットの存在ではないでしょうか?
従来、マスコミ各社は世論をかなりの程度コントロールできていました。
ネットの普及により、マスコミ各社の情報発信力に対抗する力が多くの無数の小さな個人に与えられました。
特にこの1年間で、YouTubeやニコニコ動画等のように、動画を共有して意見を言い合える環境も整いました。
仮定の話ですが、もしネットが存在しない世界で亀田事件が起こっていたら、どうなったでしょうか?
放映したテレビ局が問題の場面を再放送することは恐らく考えられないので、ビデオに録画していない限り番組を見ていない人には何が起こったか分からないでしょう。
しかし、私達はネットがあるので、番組を見逃しても後から見ることができます。実際、私は亀田・内藤戦の放送が終わってから騒ぎを知りましたが、問題の場面はネット経由の動画で見ました。
また、ネットが存在しなければ、亀田・内藤戦を放映したテレビ局や、インタビューで辛らつな質問をしたテレビ局は、ある程度メッセージをコントロールできたのではないでしょうか?無数の個人同士は、草の根で意見をまとめる手段を持たないからです。
もしかしたら、対抗するテレビ局が反証番組を組む可能性も考えられますが、これはあくまでマスコミ対マスコミの構図であり、マスコミというフィルターを通じて世論が形成されることには変わりはありません。
ネットが存在する現代では、ネットで個人同士が活発に意見を交換し、世論が形成されていきます。マスコミ各社もこの動きをコントロールすることはできません。
さて、昔から日本人は、大衆の意思が一方向にまとまると、暴走してしまう傾向があったように思います。昔は太平洋戦争、最近ではバブル経済等がその例です。
しかし、ネットはそのフィードバック機能により、暴走しがちな日本社会に対して、非常によい調整弁としての役割を果たしうる可能性があるのではないか、と亀田事件を見て思った次第です。
ただしそのためには、ネット上での空気に沿わない異質な意見も、「空気嫁」「KY」と言って排除するのではなく、ある程度尊重する大人の姿勢がネットコミュニティにも求められると思います。