健全なグローバル化進展のため必要な、市場主義と民主主義のバランス

昨日(1/13)の日本経済新聞に、元仏大統領特別顧問ジャック・アタリ氏のインタビューが掲載されています。

グローバル化について、市場経済と民主主義の二つの観点で論じている非常に骨太な内容で、読み応えがあります。以下、特に興味深かった部分を引用します。

—(以上、引用)—

「公正さの低下は市場経済のせいではない。民主主義が弱すぎるのだ。これをはき違えると、富の偏在の主犯は市場主義となり、社会が分裂し、反動が出かねない。十八世紀以降、社会が行き詰まると民主主義が全体主義に、市場経済が保護主義に乗っ取られ、大きな戦火を引き起こした。いまも、市場経済は行き過ぎだと主張し、保護主義を掲げる勢力が出てきている。これは繰り返されてきた誤りだ」

―グローバル化の強みを引き出すにはどうすればいいのですか。

 「民主主義を懸命に支え、もり立て、市場経済と競合できる対等な関係を保つことだ。ふたつを不可分に結びつければ、グローバル化は世界にとって脅威ではなく、福音となる。…..」

—(以上、引用)—

「格差社会を生んだ主犯は市場経済。だから市場経済は悪なのだ」という主張は、最近よく世の中に見られます。アタリ氏は、このような主張に反論しています。

確かに成果主義的な市場経済は、富を生むのに長けたモノにはより多くの富を、そうでないものにはより少ない富をもたらします。しかし、民主主義は、このような富を再配分する機能があり、格差社会が生まれたのは民主主義が弱いからだ、という主張です。

私は市場経済、民主主義、グローバル化をこのような観点で関連させて考えたことはなかったので、非常に新鮮でした。

実際、市場経済だけを声高に批判し、本来徹底的に議論すべき民主主義の議論をおざなりにしている識者も多いように思います。

ちなみに、アタリ氏は、音楽論から資本主義論まで評論の幅は広く、交響楽団の指揮をしたこともあるそうです。

日本の経済の発展を支えた経済人にも、書をたしなんだりしていた方が多かったと聞きます。

このような深い精神性が、物事への深い洞察を生むということなのでしょうか?

フラット化する世界で、必須なスキルとは?

フリードマンの「フラット化する世界」にもあるように、世の中が急速にフラット化しています。

米国は既にその波に飲み込まれています。日本はまだ限定的ですが、早晩、本格的にフラット化の波に飲み込まれることになります。

この際、多くの人々にとって、グローバル・コミュニケーションのスキルが求められてきます。

このグローバル・コミュニケーションにおいて日本人が抱える課題は色々ありますが、一番大きなモノは、「自分の意見が通らない」ということに尽きるのではないでしょうか? かくいう私も、現在の勤務先に入社以来、これに悩まされました。

一方で、相手側の日本に対するフラストレーションですが、これも色々ある中で、一番大きなモノは「日本人とは論理的な議論ができない。議論をすると黙る」ではないかと思います。

残念ながら、グローバル・コミュニケーションは、欧米社会のルールで出来ているのが現実です。

この前提で考えてみると、…。

日本人は、相手の立場や対面を尊重し、異なる意見は悪いことと考え勝ちです。従ってコンセンサスや根回しが重要になります。この際、相手には明確に自分の意見を言わず、「察し」を求めます。

一方、相手にとって、実は異なる意見は良いことなのです。この意見の相違を、議論を重ねるプロセスを通じて解消し、高めあっていきます。このプロセスを行う際、沈黙は意見がないのと同じです。文化的背景が異なり、暗黙知も共有できていないので、「察し」が出来ないのです。

つまり、「沈黙していると、相手の土俵で論理的な議論が出来ない」、ということになります。

これは、言い方を変えると、「グローバル・コミュニケーションは弁証法によって成り立っている」ということですね。議論を通じてより真実に近づき、よりよきものにしようと努力している訳です。

ということで、フラット化した世界では、弁証法の考え方を身につけることは、極めて重要になるのではないでしょうか?

弁証法というとどうしても難しいモノに考え勝ちですが、最近は分かり易い書籍も出回っていますし、検索してみると結構色々出てきますので、この機会に学んでみるのもいいかもしれません。

ちなみに、Wikipediaの「弁証法」の解説は、結構わかりやすいように思います。⇒リンク

コミットメントと謝罪、日本と欧米のすれ違い

あなたは「コミットメント」はどのような意味だと思いますか?

「100%確実に達成しなければならないことで、できなければ責任を取るべきもの」と考えるのではないでしょうか?

武士道の文化があるためか、日本人は「コミットメント」は非常に重いものと考えます。「武士には二言はない」という言葉にもあるように、コミットメントの意味合いが重いために、なかなか日本人はコミットメントしません。これが、米国人には「日本人はコミットメントしない」と写るようです。

一方で、欧米人の場合、80%の自信(Confidence)があればコミットメントし、達成に向けて努力します。当然失敗することもありますが、その場合は「ダメだった。理由はxxxxxだ」と説明します。

これが、日本人から見ると非常に無責任でかつ言い訳をしているように聞こえてしまいます。日本人の場合は、むしろ「長い言い訳はせず、潔く謝るべきだ」という発想になるのではないでしょうか?

ちなみに、カルロス・ゴーンさんの「コミットメント」は、どちらかというと日本人的な意味合いが強いようです。実際、ゴーンさんは2000年度中に日産が黒字達成できなければ辞任すると明言していました。様々な国で仕事をされてきたゴーンさんは、日本人のコミットメントの強さに驚き、コミットメントは日本のサムライ精神そのものであり、コミットメントの強さは日本独特の競争優位性だとも述べています。

逆に言うと、このことは、海外でのコミットメントは日本ほど厳しいものではない、ということの裏返しでもあります。

謝罪の場合も同様の構図があります。

例えば、海外で製造上の問題を起こした日本メーカーの場合、最初に潔く謝り、分析や今後の対応策を示さないことが多いようです。日本の場合、世間は謝罪した事実をもってよしとして、ある程度受け入れますが、欧米社会の場合は「自分に非があると謝罪するなら、何故その分析と対応策を見せないのか? 誠意がない」と言われます。

一方で、日本で問題を起こした海外メーカーの場合、謝罪を行わずに詳しい分析と現在の対応策を示すことがよくあります。欧米社会ではこのスタイルが受け入れられますが、日本社会の場合、「何も謝罪の言葉もなく、分析と今後の約束のみ、とは何事だ。誠意がない」と言われます

お互い、自分が正しいと信じた方法で誠心誠意対応しているにも関わらず、相手から誠意がないと非難されている訳です。

こちらもどちらが正しいということはありません。文化の違いです。国際社会で、日本と海外で誤解が生じるのは、このようなところが原因のようです。

異文化コミュニケーションでは、同一文化内でのコミュニケーションスタイルを改め、相手の社会基準に従ったコミュニケーションを行う必要があります。この点は常に心がけたいものです。

「多国籍企業」と「グローバル企業」、どう違うか?

「多国籍企業の現地法人化」と「グローバル企業」、似たものと考え勝ちですが、実は全く違います。

「多国籍企業の現地法人化」は、世界各国でビジネスを展開し、それぞれの国で現地化を徹底させるため、現地法人に会社としての全ての機能を持たせるようにするものです。

現地法人に営業、人事、財務、人事等の機能を持たせ、これがさらに発展してくると、各国のお客様の要望にさらに応えるべく、現地法人が製造、研究開発やマーケティング等の機能を持つようになります。

現地法人は比較的経営の自由度が高く与えられることもあります。場合によっては、本社とは別の戦略を推進する場合もあったりします。

トーマス・フリードマンの定義に従って、1492年~1800年をグローバライゼーション1.0、1800年~2000年をグローバライゼーション2.0、世界がフラット化した2000年以降をグローバライゼーション3.0と定義すると、グローバライゼーション2.0を推進したのは多国籍企業でした。

国境を越えて別の国にある本社から各種機能を提供するよりも、多国籍企業が行ったように現地の各国で各種機能を抱えた方が、コストははるかに安くなり、かつ各国のお客様に対する対応レベルもはるかに向上します。

一方、現代はグローバライゼーション3.0の世界です。つまり、国境を越えて様々なサービスを価格と品質が最適な地域から提供できるようになりました。しかも、距離的コストは無視できるほど安くなりました。

このような時代、多国籍企業はグローバル企業に進化します。

つまり、現地法人が営業、人事、財務、人事、製造、研究開発、マーケティング等の全ての機能を持つよりも、それぞれを切り出して、価格と品質の観点で見て最適な地域から提供する方が、企業全体の観点で競争力が向上します。

つまり、多国籍企業では、企業に必要な全ての機能を現地法人レベルで最適化して持っているのに対して、グローバル企業では企業に必要な全ての機能はグローバルレベルで最適化するようになります。

従って、グローバル企業では、必ずしも現地法人が全ての機能は持っていない、ということもあり得ます。

例えばIBMの場合、各国IBMの人事サービスは、フィリピンのマニラで提供されています。⇒詳しくはこちら

これは外資系企業だけの話ではなく、全ての企業で起こりつつあることです。
また、いったん動き出したこの動きは、恐らく止まりません。

我々が個人々々のキャリアプランを考える上でも、「フラット化する世界」でも書かれていたこのような世の中の大きな動きは十分理解する必要があると思います。

「コインの表が出たら私の勝ち、裏が出たらあなたの負け」

….、このタイトルを見て、「そんなの、普通じゃん」と思ったアナタ、詐欺に注意しましょう。

この条件で、どのような場合に自分が勝てるかをよく考えていただくと、分かります。そう、勝てないですよね。

ここまで単純化したケースではないですが、このようなロジックは、交渉で海外の相手がよく使う手法です。
つまり、どちらに転んでも、自分に利益が入ってくるようになっている、ということです。

しかも、いかにも相手にメリットがあるかにように巧妙に言ってきます。

しかし、このコインの場合と同様、実際の結果を想定して自分にどの条件でどのような見返りがあるか、ちょっと時間をかけて客観的に分析すると、相手のトリックはすぐに見破れます。

性善説を信じる日本人は、自分が仕事の相手に条件を出す場合のことを想定して、「まさか相手が自分にこんなことを言う訳ない」と思い込み勝ちです。

さらに、「こんなことを言って騙そうとする相手は信じられない。取引すべきではない」とも考えるでしょう。

しかし、駆け引きが常套化しているグローバル・コミュニケーションではこれも交渉術の一つであり、我々日本人からすると残念ですが、交渉の場では「こんなのに騙される方が悪い」のです。そしてそんな相手とも、価値があると判断したら取引しなければならないのが現実です。

我々は「批判」という言葉自体もネガティブに受け取りがちですが、まず最初に批判的(critical)に考えていく、という姿勢が常に必要ですね。

起承転結では通じない

昨日に引き続き、グローバル・コミュニケーションです。

時々、私のブログに「■ ■ ■ ■」の行を入れています。よく見ていただくと分かると思いますが、この行があるエントリーでは、この行が合計3つあります。

実は、「起」「承」「転」「結」に相当するそれぞれの部分の切れ目に、「■ ■ ■ ■」を入れています。これにより若干でも読みやすくなればと、思っています。

議論や交渉で、「起承転結」それぞれの役割を考えると、

起…導入部。問題提起と定義。

承…「起」を受けた分析。またはより深く掘り下げた調査。結論に向かってのアクション。

転…「起承」の流れを離れて、もう少し広い観点で見るとどうなるかの確認。論理の整合性のチェック。

結…「起承転」を受けての結論。

ということになると思います。(尚、私がブログで書いているエントリーは、自由度を持たせるために必ずしもこの流れになっていません。「転」が「承」の一部に入っていたり、「転」の位置に「承」があったりしています)

ただ、米国人にこの起承転結で話すと、「起承」までは受け入れてくれるのですが、「転」の部分に入ると急に分からなくなることが多いように思います。

「起承までのロジックは分かるけれど、何で急に今までのロジックが変わるの?」という戸惑いがあるように感じます。

そこで、論理をより単純化し、「転」を省略して「結」の話をすると、割とすんなり納得してくれます。(但し、先に述べたように「承」の一部に「転」に相当するロジックがあったりするので、単純に「転」を全部カットするわけではありませんが)

つまり、米国人相手に交渉する場合、「起承転結」で話すよりも「起承結」の方が分かりやすい、ということです。

一般的に、日本人は思考のプロセスを全て見せようとし、見る人もそのプロセスが分かると安心して納得するようなところがあります。

これに対して、米国人は、ロジックの整合性とその結果により興味を持ち、そのような結論に至ったプロセスにはあまり興味がないようです。

米国人と交渉する際、このようなことを考慮し、日本のロジックを組み替える必要があります。

尚、これは日本人と米国人の平均値を比較した場合ですので、言うまでもなく「起承転結」の論理を好む米国人も存在します。

会議で皆が沈黙する瞬間に、何が起こっているのか?

『欧米人は、会議の「沈黙の瞬間」をとても嫌う』

現在、受けているグローバル・コミュニケーション研修で、講師である米国人の方がおっしゃっていた、興味深い事実です。

確かに欧米人が過半数の会議では、常に話が継続し、沈黙の時間というものはありません。

一方、日本人の会議では、「間」という沈黙の時間が結構あるように思います。
日本人と欧米人が同席する会議では、この日本人の「間」が、とても欧米人に嫌われるようです。

日本人の会議の「沈黙の時間」は、何が起こっているのでしょうか?

田坂広志さんが著書「なぜマネジメントが壁に突き当たるのか―成長するマネジャー12の心得」でこのことを書かれています。

–(以下、引用)—–
 昔から、「沈黙は金」という言葉があります。
 皆さんは、会議などにおいて、この「沈黙は金」とも呼ぶべき瞬間を経験したことはないでしょうか?
 例えば、こういう瞬間です。

 会議において、メンバーでかなり議論を尽くした場面です。そして、議論は尽くしたのですが、これといって決定的な理由がないまま、プロジェクトの方針がある方向に決まろうとするときです。その瞬間、それまで黙っていたマネージャーの田中氏が口を開くことがあります。

「うまく言えないのだが、やはり、この方向ではないような気がする…」

 この田中マネージャーの発言で、会議は沈黙します。

 しかし、しばしの沈黙の後、誰かがその沈黙を破ることを恐れるように、小さな声で聞きます。

「なぜですか?」

 しかし田中マネージャーは、言葉を捜すかのように深く考え込み、言葉を発しようとしません。会議の沈黙は続きます。それでも、誰も田中マネージャーに反論を述べようとはしません。
 なぜならば、田中マネージャーは、衆目認める仕事のできるマネージャーだからです。そして、その彼の力量を知っているからこそ、会議のメンバー全員が、その田中氏の「言葉にならない智恵」の大切さを感じているのです。
 こうしてしばらく会議が沈黙を続けた後、誰かが思い切って沈黙を破るように言います。

「田中さんが、そう感じるなら、きっとそうでしょう…」

 そして、この一言で、会議の流れが変わります。

 皆さんは、こうした場面を経験したことはないでしょうか?
 もしそうした経験があるならば、それは実に大切な経験です。
 なぜならば、それは、マネジメントにおいて最も高度な能力が発揮されている瞬間だからです。

(中略)

 大切な智恵が、言葉ではない「何か」を通じて伝えられる瞬間なのです。

(中略)

 このエピソードは、彼の「暗黙知を伝える能力の高さ」を象徴しているのです。

 そして、不思議なことに、こうした「沈黙は金」の瞬間を生み出すことのできるマネージャーは、ひとたび口を開けば、極めて説得力のある雄弁な人物であることが多いのです。
 こうしたマネージャーは、「沈黙は金」「雄弁は銀」の理(ことわり)を知り、それを使い分けているだけなのです。

–(以上、引用)—–

ハイテキスト・コミュニケーションが主体の日本社会では、この「沈黙の時間」が会議の大切な部分として成り立ち得ます。

一方で、多様な文化によって成り立ち、ローコンテキスト・コミュニケーションを主体とした欧米社会では、この「沈黙の時間」は、無駄な時間、というよりもむしろ会議の流れを澱ませる時間として位置付けられる、ということなのではないでしょうか?

恐らく、上記で引用した状況に、文化的な面も含めて暗黙知を共有していない欧米人が同席すると、何が起こっているのか理解できないのではないかと思います。

実際、世界でハイコンテキスト・コミュニケーションの度合いが一番高いのは日本人だそうです。

これが「日本人は理解できない」と言われる所以でしょう。それと同時に、これが日本人同士のコミュニケーションが非常に高度なものである所以でもあると思います。

我々日本人は、このような文化的な違いを認識した上で、コミュニケーション・スタイルを切り替えなければならない、ということなのではないでしょうか?

 

関連リンク:ロー・コンテキスト社会 & ハイ・コンテキスト社会

 

状況でモノゴトが決まっていく日本

昨年8月に立ち上げた合唱団が、設立1年を迎えて団員40名を超える規模になりました。

数名のメンバーで始めた頃は、練習後に全員で集まり話し合いで全てを決めて進めていく方法でうまくいってました。

しかし、団員数が20名を超えた今年2月頃から全員集まるのが難しくなりました。そこで運営幹部を決めて団員から運営を委託されて運営するようになりました。

しばらくこれで回っていたのですが、団員数が40名を超えた8月頃からこの方法でも団員全員をまとめるのが難しくなってきました。そこで、団則を決めることにしました。

ということで、先週合唱団で総会を行い、団則を定めました。団則の前文で基本的な考え方や行動指針を示し、個別条文で最低限のルール(会計基準、入団・休団・退団規則、練習・演奏会参加規則、団則変更規則、等)を決めました。今後はこの団則を基本に、適宜判断しながら合唱団を運営していくことになります。

しかし、本当は団則はなくても、団員全員で価値観を共有して不文律でモノゴトが決まる方がよいのですよね。あまり規則は増やしたくないですし。

実際、他の合唱団にいた方の意見も聞きましたが、ここまでキッチリと団則を決めている合唱団はほとんどないようです。しかし人数が急増している現状では、理念を共有する意味でも必要だったのかな、と思っています。

ここ数週間、このようなことを考えていたのですが、大前研一氏が書いた記事「親王誕生フィーバーで見えた日本人のいい加減さ」で、ふと思うことがありました。

大前氏は、「わたしは元々、法令で定める天皇制度反対論者である。….天皇は法律の外に置かれる存在だといのうが『新・国富論』(講談社)以来のわたしの基本的な考えだ。」と断った上で、皇室典範の改正について意見を述べています。以下、引用します。

—以下、引用—-

  • 「最終答申がまとめられ、国会で法律として通そうというときに、国会での議論の最中に一つのメモが入れられて、懐妊の一報が飛び込んできて」
  • 「急に議論が下火になり」
  • 「『どうも男子らしいぞ』という話が出てくると、今度は、議論が出せなくなった。」
  • 「それなのに親王さま誕生というニュースとともに、それまでの話がゼロになってしまう。その理由が、「たまたま親王さまが生まれたから」でいいのか。」
  • 「国民も、いつのまにか親王さまは継承順位3位というムードになっている。『これでよかった』と言っている国民がほとんどだ。懐妊のニュースが流れるまでは、「愛子さまが天皇になってなぜ悪い?」というのが国民の意見だっただろう。それが、いきなり「男子が生まれて、ああ、よかった」という雰囲気に流れている。」
  • 「こういうことが、政局の運営、政治の都合で平気で行なわれていいのだろうか。」
  • 「そうした場当たり主義的な展開がマスコミなども含めて普通に行なわれるのが、今の日本なのである。….まったく出たとこ勝負、ということである。」
  • 「この半年間を見て明らかになった日本の曖昧な体質、ムードだけで進んでいく体質は、どこかで修正する必要がある。」

—以上、引用—-

皇室典範改正が見送られた当初、私も同じことを考えていましたが、最近は少し違う考え方もしています。

日本では、モノゴトがルールはなく、状況(=空気)で決められていきます。このように状況でモノゴトが決まる際には、この背後でハイコンテキスト・コミュニケーションが行われています。これは社会が空気を共有しているから出来ることです。

ルールでモノゴトが動く世界、言い換えればローコンテキスト・コミュニケーションの世界では、これがなかなか実現できません。多くの移民から構成された建国230年の若い国、米国はまさにその典型です。

状況でモノゴトが決まるということは、状況により柔軟に対応できる反面、首尾一貫性がなくコンセンサスを得るのにコストと時間が膨大にかかってしまいます。場合によっては、議論しているうちに時間切れ、ということもあります。

余力があれば、本来は状況に応じて判断できる方が柔軟性があり望ましいのかもしれません。しかし、世の中が急激に変化するようになった現代で、一貫性を持ってタイムリーに対応するためには、ある程度の最低限度のルールは必要です。

今回、団員の仲間と話しながら団則を制定する際に、「状況により判断でき」かつ「規則である程度決めておく」ことのバランスの重要性を感じました。

さて、大前氏は、

  • 「仮に、継承順位1位~4位の人たちに万が一のことがあったら、いったいどうするつもりなのか。」

とも言っています。

恐らくこのような状況に陥った場合、また日本社会は膨大な時間とコストをかけて議論が行われることなのでしょう。

これはいいことなのでしょうか?悪いことなのでしょうか?

ハイコンテキスト社会の日本では、一概に言うことは難しそうですが、個人的には緊急事態に対応するためにも、最低限の規則は作っておいた方がよいのではないかと思っています。

ジーコ「強豪国入りには20年いる」

ジーコのインタビューが日経ビジネス2006年9月18日号「敗軍の将、兵を語る」のコーナーに掲載されています。

代表監督辞任後、このようなインタビューが流されるのは恐らくこの記事が初めてではないでしょうか? ちょっと長いですが、引用します。

*** 以下、日経ビジネス 2006/9/18 p.154-157から引用 ****

  • 代表監督を引き受けた以上、敗戦の責任はすべて私にあります。….我々は期待に応えられなかった。そのことが残念で仕方ありません。
  • ただし、W杯で良い成績が残せなかったからといって、私が謝るのはおかしいと思います。
  • ….マスコミの対応にはショックを受けました。"開き直り会見"とも批判され、とても落胆しました。
  • 私は代表監督としてベストを尽くしたと胸を張れる。….ベストを尽くした相手に「謝れ」なんて言うのは、私の知る限り日本人くらいですよ。
  • 確かに結果は残念ですよ。皆さんが思う以上に、私も悔しい。でもサッカーはスポーツですから、勝つこともあれば負けることもあります。
  • 日本がW杯に行けたのは、どうしてだと思いますか? 誰が指揮をして、アジア地区予選で11勝1敗という成績が収められたのでしょうか?誰かにプレゼントされたものではなく、私を含め皆が一生懸命やったからこそ、W杯の出場権を得たのです。
  • (また、)トルシエと指導方針についてよく比較されましたが、それは私の本意ではありません。 トルシエは、自らの戦術に合わせて選手を意のままに動かすサッカーを目指したと言われます。私が目指したのは、選手が自分の頭で考えるサッカーです。何でも許したのではなく、監督である私が基本的な戦術を決め、選手はその枠組みの中でオプションを選択できる自由を与えたのです。
  • マニュアルに慣れた選手には、私のやり方は少し高度すぎたのかもしれません。しかし世界の趨勢は私が目指したサッカーと同じです。
  • フィジカル(体格)の強化も長い道のりです。…筋肉の損傷とか疲労骨折に悩まされた選手がどれだけ多かったことか。ほかの国では、20歳を過ぎたら、まず骨折なんてしませんよ。….適切なトレーニングをしているからです。
  • ブラジルでは、才能があると見込まれた選手は、エリート養成コースに入れて徹底的に鍛えます。食事も通常の人とは違うものを与えます。ロナウジーニョだって、昔は痩せた選手でした。それがフィジカルの強化によって、今では世界最高の選手と呼ばれるほど、成長しました。….最新の栄養学を取り入れてケガをしにくい選手をたくさん育ててほしい。

****以上、引用*****

W杯直後の日本のマスコミに、「ジーコ、謝れ!」という空気が流れていて、オシムが出てくるなり一転して報道がオシム一色になったのは確かです。

ジーコの発言は、これらの空気から一歩引いて、「水を差す」発言だと思います。

冷泉氏が指摘している通り、『「水」が差されることで「空気」が消える』のですが、このインタビューが世の中にどれだけ「水を差す」効果があるかはまだ分かりません。

しかしながら、「多様性」と「グローバル」は、イノベーションのキーワードの一つです。

日本にとって、ジーコのような「水を差す」発言を受け入れて尊重する文化を育むことが、多様性を重んじグローバル社会で発展していくことに繋がっていくのではないでしょうか?

“メード・イン・ジャパン” 米国流⇒日本流⇒世界流

「モノ作りとは違って、日本の小売は海外では通用しない」と思われてきましたが、この常識が崩れ始めてきていることが、日経ビジネス2006年9月4日号の特集「コンビニ、世界を駆ける!」で書かれています。

この記事には、小売だけでなく全ての業種で、グローバル化する際のヒントが満載です。

合計22ページの大特集なのでちょっと長くなりますが、ポイントと思った点を引用します。

—(以下、引用)—

中国では、

・真夏だというのに(セブン・イレブンの)おでん売り場は若い女性客が殺到。ダシは中国仕様
・おにぎりを歩きながら頬張るのがカッコいい-セブンイレブンが進出してから、北京の若者にはこんな流行が生まれた
・日本流をそのまま持ち込んでも受け入れられるとは限らない。鈴木会長は「中国に合ったコンビニを作れ」と指示

米国では、

・米セブン・イレブンは10年にわたって既存店舗の売上が前年比プラス
・昨年11月に日本側(セブンイレブン・ジャパン)が米国を完全子会社化した
・米国ではこれまで日本流が浸透しなかった理由は、(1)ゼロから始めた日本やアジアと違って、既存店舗を引き継いだ形のスタートだったため、加盟店に「単品管理」がなかなか浸透しなかった。(2)店舗のドミナント(地域集中)展開が不足していた
・「今後は地域特性を踏まえたうえで、各地区から独自商品を出していく。タンピンカンリは、むしろ人種や食生活が多様な米国だからこそ必要な手法だ」とデピントCEOは語る

国境を越える日本製"流通OS(基本ソフト)"

・日本製流通OS(基本ソフト)の真骨頂は仮説・検証作業でもある。どうすれば売れるかという仮説を立てて、検証する。結果が出なければ再び仮説・検証を行う
・日本のコンビニは極めて苛烈な経営環境の中で経営ノウハウを研ぎ澄ませてきた。日本という市場で鍛え上げられたコンビニだからこそ、日本とは環境も嗜好も異なる外国に対応できる基本動作が備わっている。日本製流通OSを愚直に活用すれば小売業に必須のローカル化も円滑に進む
・製造業ではない流通業の"メード・イン・ジャパン"の強さが、改めて問われる

鈴木敏文セブン&アイ・ホールディングスCEOインタビュー:「ローカルを海外展開」

・小売業というのは、基本的にドメスティック(国内的)なものなんです。そのことを認めたうえで世界を見る必要があります
・消費レベルが高くなればなるほど地域性が強くなる

—(以上、引用)—

元々、セブン・イレブンを日本で展開するにあたっては、米国のマニュアルを日本に適用せずに日本でゼロから作り上げて洗練化させていった経緯があります。

この記事を読んで、

  • グローバル化にあたっては、戦略(ストラテジー)レベルでは骨太の単一基本戦略を構築し、
  • かつ展開(デプロイメント)レベルでは地域特性を考慮し徹底的にローカル化を図っていく

ということがポイントである、と改めて思いました。

この記事の例では、基本戦略レベルは「仮説検証アプローチ」「単品管理」「ドミナント展開」、展開レベルでは「地域特性にあった独自の商品開発」、ということですね。

ビジネスのサービス化が進んだ現代、この考え方は全ての業種で有効なのではないでしょうか?

関連リンク:
なぜ、3月にそうめんを無性に食べたくなるのか?
セブン-イレブン 覇者の奥義
「グローバライゼーション」とは「ローカライゼーション」
異文化理解のための10次元の考え方
日本が変わると世界も変わる
日本流から、世界流!?
日本流とグローバル統合

 

ちなみに、この本の著者の方も、今回の取材に参加しているようですね。

「グローバライゼーション」とは「ローカライゼーション」

世界には様々な文化があり、どれ一つとして同じものはありません。

マーケティングから見た市場も同様で、各国の市場は皆異なります。

グローバル・カンパニーがマーケティングを行う際には、出来る限り基本戦略は統一する必要があります。しかし、それを各国に当てはめる場合は、各国の事情を考え、ローカライゼーションを行うことが重要です。

つまり、グローバライゼーションとは、全世界で同一のモノを展開することではないと思います。

むしろ、グローバライゼーションとは、それぞれの文化が異なることを認識した上で、まずできるだけ普遍性のある戦略を立てて、各国に展開する際にはローカライゼーションを行うことではないか、と思っています。

つまり、「グローバライゼーション」=「ローカライゼーション」ということではないでしょうか?

海外に本社があるグローバル会社では、多くの場合は日本法人はビジネス上は大きな比重を占めています。従って、グローバライゼーションのためのローカライゼーションを各国で展開するに先立って、まず日本でのローカライゼーションを提案するのも、一つの方法ではないかと思います。

関連リンク:
異文化理解のための10次元の考え方
日本が変わると世界も変わる
日本流から、世界流!?
日本流とグローバル統合

2ちゃんねると、空気と、水

今泉さんのエントリー「「2ちゃんねるが厄介な『空気』を追い払った」史観 」は、以前より私も非常に関心があるテーマなので、書かせていただきたいと思います

冷泉彰彦氏が『「関係の空気」「場の空気」』という本を書かれています。この本でも山本七平氏の『空気の研究』は大きく取り上げられ、さらに現代の様々な状況を反映して深化させた名著となっています。

この本を議論のベースとして考えてみると、2ちゃんねると空気の関係を考える際には、「2ちゃんねるが外の世界の空気と関わる問題」「2ちゃんねる内の空気の問題」の2つの観点が考えられると思います。

それぞれに分けて考えてみたいと思います。

■ ■ ■

●2ちゃんねるが外の世界の空気と関わる際の問題

これは、『2ちゃんねるが世間の空気を中和する「水」の役割を持っている』、ということなのではないかと思います。以下、冷泉彰彦氏の本(p.130-131)から引用します。

—(以下、省略しつつ引用)—-

「水」が差されることで「空気」が消える。ここで言う「水」とは「通常性」であり、「日本人の伝統的価値観に基づく状況論理」のこと。例えば、ライブドアの時価総額拡大方針に踊った空気に対して、検察庁が「額に汗するものが報われる社会を」という水を差したのはこのケース。但し、一旦「水」を差して「空気」を止めても、その「水」自体が新らたな空気を生み出す温床となりうる。

—-(以上、引用)—

今泉さんが「2ちゃんねるが厄介な『空気』を追い払った」としているのは、2ちゃんねるが水を差す役割を果たしている面を指摘なさっているのだと思います。また、コメントなさっているCzさんも、この意見ですね。

通常の生活では対人関係や立場上の問題によって、なかなか本音は言えません。しかし2ちゃんねるでは既成概念にとらわれず、各個人の本心を言う事が可能でした。少なくとも2ちゃんねるができた頃は。

この意味で、2ちゃんねるの登場は画期的ではありましたが、最近の2ちゃんねるの書き込みは一時期と比べてかなり質が落ちてきており、世間の空気に水を差す機能も低下しつつある点は、残念でもあります。これは、次の論点とも関係してきます。

■ ■ ■

●2ちゃんねる内の空気が生む問題

2ちゃんねるの中にも確かに空気は存在しますし、従って空気の弊害からは逃れられません。

省略表現や記号化は、それが一対一の会話における「関係の空気」を作る場合は非常に親密な関係を構築する役割を果たします。つまり、『省略することで「空気を共有している」という親近感のメッセージを送りつつ、暗号解読のカタルシスを瞬間に感じている』のです。

しかし、三人以上の場における「場の空気」を作る場合は、共通の価値観を作り上げられる反面、共通理解を持てない人を「場の空気」から排除してしまう役割を持ってしまいます。

あの独特の2ちゃんねる言葉は、文字だけのネットコミュニティ上でこのような空気を醸し出すのに一役買っており、かつ、空気を読めない人を排除する機能を有している、という見方もできます。

冷泉彰彦氏はまた、匿名掲示板という特殊な空間で、意味あるコミュニケーションを成立させるにはどうしたらよいか、という命題に対して、2ちゃんねるの注意書きを引用しています。

—-(以下、2チャンネル「おやくそく」より引用)—-

頭のおかしな人には気をつけましょう

利用者が増えるに従って、頭のおかしな人もそれなりに出没するようになって来ています。頭のおかしな人に関わるとなにかと面倒なことが起こる可能性があるので、注意しましょう。

頭のおかしな人の判定基準

  • 「みんなの意見」「他の人もそう思ってる」など、自分の意見なのに他人もそう思ってると力説する人
    他人が自分とは違うという事実が受け入れられない人です。自分の意見が通らないとコピペや荒らしなど無茶をし始めるので見かけたら放置してください。
  • 根拠もなく、他人を卑下したり、差別したりする人、自分で自分を褒める人
    他人を卑下することで自分を慰めようとする人です。実生活で他人に褒めてもらう機会がないがプライドだけは高いとか、匿名の掲示板しか話し相手のいない人です。可哀想なので放置してください。
  • 自分の感情だけ書く人
    「~~がムカツク」とか自分の感情を掲示板に書くことに意味があると思っている人です。
    何がどのようにムカツクのか論理的に書いてあれば、他人が読んでも意味のある文章になりますが、そういった論理的思考の出来ない人です。もうちょっと賢くなるまでは放置してあげてください。

—-(以上、引用)—–

2ちゃんねるという空間で、「頭のおかしな人」は「放置」、というのは、とりもなおさず、空気を共有できない人は排除しましょう、ということですね。

これが、匿名掲示板上では一概に「悪い」と決め付けられないのが難しいところです。

私も1990年代前半に3年間パソコン通信の会議室で管理人を担当していた際、問題ある書き込みにはかなり悩まされました。問題ある書き込みと言っても、本人はそれなりに考えて書いているのですし、幸いパソコン通信では書き込んだ人にはメールで連絡可能でしたので、私は「書いた本人に理由を説明し、了解を得た上で削除する」、という基本方針で対応しました。かなり神経をすり減らしましたし、日常生活に支障が出たので、3年間で管理者は降板させていただきましたが….。

匿名掲示板ではこの本人に確認を取る、というプロセスを踏めません。ルールを決めてそれに違反したら削除、という方法も、タイムリーな対応と量の問題で難しい面もあります。問題のある書き込みがあり、ここで非難の応酬が始まってしまうと「場の空気」が悪くなり、コミュニティ全体が荒れてしまいます。

「放置しましょう」という「空気」を作るのも、生活の知恵なのでしょう。

今泉さんのエントリーにコメントされている方々も指摘なさっていますが、2ちゃんねるもコミュニティの一つであり、従って空気の弊害からは逃れられない、ということなのではないでしょうか?

■ ■ ■

ところで、今泉さんのエントリーに対するコメントは、まさに「世間の空気を中和する水の役割」であり、空気の支配が強まっていっている現代の日本社会にはますます必要とされるモノだと思います。

このような機能は、今や2ちゃんねるからブログに取って替わられようとしているということでしょうか? ブログでは、自分の立場というものが常について回るので、ある程度抑制された内容になってしまうのは仕方がない面がありますが….。

 

関連リンク:
日本における「空気」の功罪
ネットは利他的だ。…少なくとも日本では

異文化理解のための10次元の考え方

グローバル化する世界で、オープンなコラボレーションの場が広がり、様々な価値観を持った人達と協業する場面が増えてきています。

国や民族の文化の違いに留まらず、部門の文化の違い、企業の文化の違い等に対する理解も必要になります。

このような背景があって、よりスムーズに異文化コミュニケーションを行うための研修に出たのですが、大変勉強になりました。

特に参考になったのは、文化を以下の10個の次元に分けて分類し、相手がどのモードなのかを理解するアプローチです。

「環境に対する認識」、「時間の認識」、「行動様式」、「コミュニケーション方法」、「空間の認識」、「権力の認識」、「個人としての振る舞い」、「競争・協業」、「構造」、「思考形態」

国を例に考えると、「競争・協業」の次元では、日本は多くの対内的には「協業的」、対外的には「競争的」です。中国も日本と同様ですが、これが米国だと一般に「競争的」になります。

時間の認識では、日本の場合、多くは「時間に正確、時間が行動を規定」し、「伝統を尊重し、かつ長期的利益を短期的利益に優先する」傾向に対し、中国は「時間は緩やか、行動が時間を規定」し、「長期的利益を尊重しつつ、より短期的利益も重視する」傾向。米国は「時間に正確で、時間が行動を規定」で、「短期利益志向」というように分類できます。

尚、上記はあくまでもそれぞれの国民性全体を理解するための目安です。言うまでもなく、米国人で協業的な人もいますし、中国人で時間に正確な人も日本人で時間にルーズな人もいます。

この10個の次元は国によって様々な組み合わせがあり、それぞれの国が独自のパターンを持っています。

我々は往々にして米国のパターンをグローバル・スタンダードと認識し勝ちですが、米国もそのような多くのパターンの一つに過ぎません。

従って、「グローバル・スタンダード」という全世界共通のものは自発的には生まれないのだということを、改めて認識した次第です。

もし「グローバル・スタンダード」というものがあるとすれば、文化によって様々なパターンがあり、どれ一つとして同じものが存在しないということを認識した上で、その多様性を尊重しつつ対処する姿勢・態度を持って、多様性の中で作り上げていくものなのではないでしょうか? 決して、どこかの一国の価値観でリードして作り上げるものではないと思います。

参照リンク:
ロー・コンテキスト社会 & ハイ・コンテキスト社会
日本と全く違う、中国の消費者

ロー・コンテキスト社会 & ハイ・コンテキスト社会

米国社会では、日本社会では暗黙知として既に共有していることを、後になって新しい発見したかのように取り上げることが多いような気がします。

本日(7/26)の日本経済新聞夕刊「ウォール街ラウンドアップ 短期利益主義に批判」という記事で、その一例が紹介されていました。

この記事では、全米アナリスト協会と「企業倫理に関するビジネス・ラウンドテーブル」が発表した「短期利益主義の打破」というレポートが紹介されています。米国企業で慣例となっている四半期毎業績予想の弊害を説く内容で、四半期予想が株価の変動率を高めている、と指摘しているとのこと。

このレポートは読んでいないので安易なことは言えませんが、記事の内容を見る限り、四半期毎予想がよいことばかりではない、という結論は日本人は以前より皆なんとなく感じていたことだと思います。

日本では、会社は短期の利益を追いかけるべきではなく、長期的な視野を持って発展を考えていくべき、という感覚を比較的共有しているのではないでしょうか?

最近、「米国社会はロー・コンテキスト社会であるのに対して、日本社会はハイ・コンテキスト社会である」という話を聞きましたが、これが原因の一つかもしれません。前者はコミュニケーションが明示的に行われるのに対して、後者は暗黙知を共有した上でコミュニケーションが行われます。

つまり、米国社会では一つの事象に対するコンテキストの共有に時間がかかるのに対して、日本ではある程度暗黙知が共有された状態であれば一つの事象に対するコンテキストの共有は簡単に行える、ということのように思います。

一方で、四半期毎業績予想の弊害は日本人は何となく分かっていましたが、明示的に説明してきていなかったように思います。ロー・コンテキスト社会だからこそ、明示的・論理的に説明できたのかもしれません。

ロー・コンテキストとハイ・コンテキストのどちらが正しくてどちらが劣っている、ということではないと思います。状況によってロー・コンテキストが合う場合もありますし、ハイ・コンテキストが優れている場合もあります。

お互いのよさを理解し、よいところは謙虚に取り入れることが必要なのでしょうね。

有給休暇繰越がない国?

海外の仕事を通じて、全く異なる文化に触れるのは楽しいことですね。

私も新入社員の頃は色々な新鮮な体験をしました。そのような体験の一つをご紹介します。5月頃、こちらのコメントに書いたものですが、もう少し詳しく書きます。

社会人2年目の春、ある製品のテストで米国に1ヶ月出張しました。この製品は世界の主要言語をサポートしていたので、世界の各国からテスト担当者が集まりました。

約10ヶ国から様々な人種が集まったのでとても賑やかでした。昼食や夕食の時は、いつもみんなで連れ立って食事に出かけたり、休日は一緒に遊びに出かけたりしました。

ある日、ドイツ人・韓国人と3人で、有給休暇の繰越制度が自分の国でどうなっているかについて議論になりました。その場にイタリア人がいたので、3人で「イタリアではどうなっているのか?」と訊いてみました。

イタリア人の彼は「有給休暇の繰越? 何だ、それ? もし有給休暇が全部取れなかったら、ってどういう意味だ?」と真顔で尋ねてきました。

実際にイタリアに有給休暇の繰越制度があるかどうかは分かりませんが、「休暇が消化できない」という発想自体がないようです。 「世界には全く違う価値観を持つ人達がいる」ということを知った、貴重な経験になりました。

どちらの考えがよい・悪い、という問題ではないと思います。

世の中には多様な考え方を持ち、その考えが正しいと信じている人達がいる、我々はその人達の考え方を尊重し、多様性があることを前提にモノゴトを考えていかなければならない、ということなのではないでしょうか?

世界がフラット化した現在、グローバルレベルのオープンな協業が加速しています。このような視点はますます重要であると思います。

 

関連リンク:国民性ジョーク

日本が変わると世界も変わる

平野さんが『「米国流」から「世界流」へ』で書かれていますが、この話題、もう少し続けたいと思います。

日下公人さんが『日本は世界を変える「変数」だ』で、下記のように述べていらっしゃいます。

  • 日本が変わることで相手が変わるようになってきた
  • 日本はもっと主張をすべき。公の場で日本の主張に毒はほとんどない。逆にそれが強み
  • 毒がないのだから日本の主張に世界は賛成し歓迎するはず。「聞かないのは勝手だけど幸せになれませんよ」というくらい主張してもいい
  • 日本は自ら提案を作り主張すべき。受け身ではなく自分達から発言すべき
  • 提案には総論と各論がある。総論には「日本人の心」をそのまま書けばいい。日本で既にやっていることを外国に対して「皆さんもどうですか」と言えばいい。簡単なはず。各論として具体案を示す

 

「日本は今や、関数ではなく変数なのだ。日本自体が前提条件であって、日本が変わると世界は変わってしまうのだ。だからこそ、日本はもっと主張すべきなのだ」

という意見ですが、これは、今までここで議論してきたコンテキストと関連付けると、

  • 日本が関数(前提条件が決まればこうなる) ⇒日本は特殊だから米国流を日本流に変える
  • 日本が変数(日本自体が前提条件) ⇒日本流を世界流へ提案していく

ということで、まさにここで議論してきたことと同じ主張ですね。

外資系企業における「日本流 vs 米国流 vs 世界流」の問題は、「日本が世界の中でどうあるべきか」というエッセンスにも関わる問題である、と再認識した次第です。

関連リンク:

日本における「空気」の功罪

今泉さんが『「空気が読めない」という時の「空気」の研究』で、大木さんが『買いたくなる空気』で、それぞれ空気について書かれています。

私は学生の頃から「日本人とは何か?」は大きなテーマでしたので、昔から山本七平を愛読していました。彼の著書の中でも、「『空気』の研究」は好きな本です。

ここで議論されているように、日本では結構重要なことがその場の「空気」で決まったりするのですよね。

これは、いい面と悪い面があると思います。

いい面ですが、ある程度の時間をかけて全体で「コンセンサス」という「空気」が出来上がり、一方向にベクトルがセットされて突き進むと、恐らく日本は多くの分野で世界最強なのではないでしょうか?

古くは富国強兵。1960年代から80年代は高度経済成長。いずれも見事に国全体のベクトルが合わさりました。

1960年に池田内閣が出した「国民所得倍増計画」が、現在も高度経済成長の原点として語られるのは、これが当時の「空気」を作っていたからではないでしょうか?

一方の悪い面ですが、この「空気」が作るベクトルが不合理な方向に進むと壮絶な破局をもたらします。中華事変から太平洋戦争までに至る道がまさにその例だと思います。最近では「土地と株価は上がり続ける」という空気で日本中が踊っていたバブル景気がその例になるのではないでしょうか?

また「空気に合わない」モノを村八分にしたり、つるし上げたりする傾向も「空気」が支配するダークサイドだと思います。ワイドショーネタになるものに、これが多いですね。

つまり、空気の存在により、…

  • 全体が均質であり同じ方向に一斉に進むので、課題が合意された後の効率は極めてよい
  • 一方で、多様性を持たないために、不合理な方向に進んでしまっても修正するためのコンセンサスを得るのが難しく、修正できないまま全体が破綻してしまうことがある
  • 均質性を乱すものは、「空気に合わない」として除外する傾向がある

ということではないか、と思います。結論だけ書くと、日本社会の特質として一般的に従来から言われてきたことになりますが、「空気」というレンズを通して考えると、分かり易いように思います。

一方で、多様性を持ったコミュニティは、冗長性が高いため効率は悪いものの、このような形での破綻は起きにくいのではないでしょうか?

「和を以って貴しと為す」日本社会では、ヒトラーのような独裁者は生まれませんが、逆に特定の個人が最終責任を持たない「全体に効し難い空気」が全体主義的な働きをしているように思います。

改めて考えると、日本人は「ヤバイぞ。このままでは日本はいけない」という空気が全体を支配している時は、謙虚に課題を捕らえており、結果的にうまく行くことが多いようです。

逆に「日本はすごいのだ。他国は何するものぞ」という空気が全体を支配し始めると、課題が見えなくなっており、逆にヤバイ方向に進み始めているような気がします。バブルの頃や戦争初期はこんな感じですね。

戦後、日本は外交問題で他国と対立するのを避けて、国民全体であまり怒らなくなったように思います。最近では竹島やテポドン2号等の問題は、国によってはそのまま戦争を起こしかねない重大問題ですが、日本人全体はデモをするでもなく、感情的にならず、理性的に判断しているように思います。

日本はいったんスイッチが入ると国全体がその空気に包まれて突っ走ってしまう傾向があるので、「何故怒らないのだろう?」と他の国の人々に不思議がられる位がちょうどよいのかもしれません。戦後の日本人全体の集合意識として、「国全体が感情的になると、ロクなことはない」ということが共有されているような気がします。

このような日本人の特質に「多様性を許容する」という「空気」を加えることで、二項対立により危機的な状況にある世界の中で大きな貢献できるのではないでしょうか?

ただし、多様性のある社会が「空気」を共有できるかどうか、という点は大きなチャレンジですが。

日本流から、世界流!?

今泉さん平野さん、TBありがとうございました。このテーマ、根深いだけに続きますね。

平野さんがおっしゃるように、トップの強い意志は必須だと思います。また、今泉さんがおっしゃるように、日本の事情を説明する「超訳」も苦労するところですね。

我々は「日本は特別な市場なのだ。だから我々は日本流でやる。」(場合により「最終的にあなた方にも役立つ筈だ」と加える)、というアプローチをしているように思います。特別で非常に複雑な日本市場を説明するのに苦労して交渉しつつ、トップのリーダーシップで日本流を押し通しています。

一方、お隣の中国のやり方を見ていると、非常に単純化すると「我々のやり方が正しいのだ。これに合せなさい」というアプローチをしているように見えます。

ポイントは、彼らが話を非常に単純化している点です。事情を知っている立場で横で聞いていると、「おいおい、そんなに単純化していいのか? 実は問題が沢山ある筈だろう?」と思ったりしますが、彼らはあまり気にせず、相手が理解しやすく受け入れられやすい単純なストーリーを作ってきます。

単純化により省略した(又は敢えて言わない)問題が顕在化し破綻する可能性もありますが、これは自分のリスクとして抱えて、本社に主張を通す方を優先するという判断なのでしょう。

「自分達が正しい。だから世界も我々の方法を取り入れなさい」という絶対的な自信と、モノゴトを思い切って単純化する割り切りとしたたかさは、我々も部分的に取り入れてもよいかもしれませんね。

但し、細やかなところが美点の一つでもある日本人がそのまま取り入れるのは難しいので、まさに日本流のアレンジが必要ですが。

 

ところで米国人は、こちらから要望を出す場合に、一般的にちゃんと「聴く」人が多いのですが、実際に「聞く」かどうかは個人差があるようです。

実際、時間をかけて説明しても、"I hear you."と言われることもよくあります。つまり「話は一応きいたよ。(対応は保障しないけど)」という意味です。

しかしながら、準備を整え、何故この問題が我々にとって重要かを伝えた上で、再度説明すると、納得して期待以上の対応することもあります。"I hear you."と言われた程度では挫けず、かつ主張は変えずに、根気よく言い続けるしぶとさが大切であるように思います。

参照リンク:日本流とグローバル統合

日本流とグローバル統合

今泉さん高橋さんが、日本IBMを事例にして「日本流へのアレンジ」について書かれています。

私の長年のテーマでもありますし、なんとなくお誘いをいただいているような気も致しましたので、私もこの話題について書かせていただきます。

グローバル統合の動きとローカライゼーションのバランス、という観点で見てみたいのですが、これはかなり重たいテーマです。

まずグローバル統合から。

世界全体がフラット化している現在、特に全世界でオペレーションを展開している企業にとっては、グローバル統合は急務だと思います。

今年6月6日と7日にインドのバンガロールで開催したIBMの株主総会の資料で、今後のIBMのグローバル化戦略について詳しく紹介されています。

非常に単純化すると、現在のIBMのグローバル化戦略は、下記の二つの目標に集約できます。

■グローバルでオペレーションを統合し、重複する作業をなくすようにグローバルのプロセスを作った上で、意思決定のレベルを出来る限り現地のビジネス責任者まで下げる。

■組織をグローバルに機能単位で統合することで、生産性とスキルを向上する。

例えばグローバル・サプライチェーン統合。購買活動に絞って考えてみると、現地法人の各部門が個別に購買活動を行っていると、全社的な視点でコストが最適化されません。分散された発注をまとめて大きなボリュームにすることで価格交渉力も出ますし発注先も大きな仕事を確保でき、さらに部門単位の個別交渉よりも高品質の発注先を確保できます。

また、人事・営業管理・不動産・コミュニケーション・マーケティング等のサポート部門もグローバルで統合することで生産性とプロフェッショナルとしての品質向上を図っています。現地法人には、今までと同様に各部門の人材を配置した上で、全世界の現地法人に横串をさして横断的な組織を作っています。この仕組みは"Centers of Excellence"と呼ばれています。

グローバルにビジネスを展開している企業のオペレーションが世界レベルで全体最適化されることは、フラット化した社会で競争に勝ち抜くためには今や必須ですので、この動きはますます強まっていくと思います。

 

次に、ローカライズ。

ブログの上で改めて言うことでもありませんが、ここから先は私個人の考えです。

「お客様の問題を解決する」ことが企業の存在理由です。オペレーションやプロセスをグローバル統合するのもお客様のご要望に応えるためですので、この辺りを混同して、日本で通用しないグローバルのモノをそのまま日本に持ってきては本末転倒です。

まさに今泉さんがおっしゃっている

  • 「①日本市場に合わせて作り直す ②目をつぶって翻訳で済ませる どっちを選ぶか」

というご指摘はポイントですね。

グローバル企業の現地法人としてこの辺りは常に悩みどころです。ここで重要なのは、高橋さんがご指摘の通り、グローバル戦略の中に日本の戦略を反映することです。

私は、世界の中でも最も洗練されたお客様がいて、かつ世界の中で最も進んだ技術も持ち合わせている日本の中にあって、日本IBMはIBMグローバルの活動に貢献することで世界全体の発展に寄与しうると信じています。

このため必要なのは、これも高橋さんがまさにおっしゃっているように、

  • 「強い信念と高い信頼」
  • 「私の言うことをすることがお前のために一番いいんだと素直に伝えること」
  • 「言語力と文化理解」

ですね。

私の経験ですが、ある分野の製品マーケティングを担当していた際、日本のお客様のご要望を満たすために米国のソフトウェア会社とのアライアンスが必要になりました。日本独自にアライアンスを組むとボリューム・メリットを活かせず契約も不利な条件になります。そこでグローバルのアライアンス責任者と密接に協業し、お互いの情報をシェアしてグローバルと日本で並行して交渉を続け、グローバル・アライアンス契約に持っていきました。日本独自で契約するよりも時間は少々かかりましたが、お客様のご要望に応えつつ、IBMのミドルウェアやサーバーをサポートするなど有利な条件で契約することができ、グローバルでもIBMとこの会社は非常に密接な協業体制を構築できました。

「フラット化する世界」は、個人のグローバル化も語っています。今後、我々各個人がグローバル・コミュニティの中に積極的に参画し、世界の多様な文化を理解しつつ日本文化に対する深い洞察を持ち、かつ様々な文化的背景を持つ人達とWin-Winのフレームワークを構築しコミュニケーションできる能力を身に付ける必要がある、と思います。

これは日本IBMだけでなく、失われた10年から立ち直り、フラット化した世界市場に再挑戦している日本全体に求められていることではないでしょうか?

国民性ジョーク

外資系の会社にいると海外とのお付き合いが多いので、国民性について色々と考えさせられます。そこで、昔、聞いた話です。

厳寒の北極海で救命ボートが定員オーバーです。男性のうち何名か海に飛び込まなければなりません。さて、あなたなら、どう説得するでしょうか?

 

英国人に対しては、「騎士道精神を見せてくれたまえ」

米国人に対しては、「これであなたは英雄として合衆国の歴史に刻まれる。しかも保険もバッチリ」

ドイツ人に対しては、「これはルールですから」

イタリア人に対しては、「女性にモテますよ」

日本人に対しては、「皆様、もう飛び込みました」

有名なジョークで色々なバージョンがあるようですが、平均するとこんな感じです。

結構当っているような気がします。

インド人の場合は議論が始まってしまってその間にボートが沈んでしまいそうですし、ユダヤ人の場合は逆にこちらが説得されて飛び込む破目になりそうな気がしますが….。

 

ちなみに、
「日本人はどこだ?」
「既に切腹して果てています」
なんて派生型もあるようです。

なぜ日本人は一生懸命働くのか?

先日のエントリーで、日本人の利他的行動は海外と異なり、ネット上でもそのような行動が見られることを述べましたが、その理由を考えてみたいと思います。

昨日(5/13)の日経プラス「私のビジネステク」に、新幹線「つばさ」社内販売員・斎藤泉さんの話が掲載されています。

斎藤さんは一日30万円を売り上げるカリスマ販売員ですが、正社員ではなく時給1,200円。斎藤さんは「どんな立場でも仕事は全力を尽くすもの」と述べています。

一日30万円の売上をあげる人が正社員ではなく時給1,200円というのは、成果に見合った処遇を求める欧米型社会では理解できないのではないでしょうか?

日本人には、「世間のために働く」、「自分自身を高めるために仕事をする」という考え方が広く行き渡っています。

山本七平氏は「日本資本主義の精神」で、日本人独特の労働倫理観は、江戸時代初期の曹洞宗僧侶である鈴木正三による影響であると述べています。

正三は、「何の事業も皆仏行なり」とし、世のため人のためを念じながら仕事を行えば、それが利他行であり仏行と説きました。

正三の教えをもう少し詳しく、かつ、分かり易くご紹介すると、

  • 人間は宇宙の秩序に組み入れられている。内心もこの秩序に対応している。本来は人間はこの秩序に従っていればよい
  • しかし、この世に戦乱や犯罪、不正、殺人があるのは、心が病に冒されているからだ
  • 心が病み苦しむのは、欲・怒り・愚痴の三毒に冒されているからだ
  • この病を癒すのは仏であり、この仏に癒しを願うのが人間の宗教心だ
  • 人々が、修行、つまり仏行に励むことで、理想的な社会が生まれる
  • しかし、修行僧とは異なり、一般の社会人は日々の務めや苦しい労働があり、修行を通した仏行は行えない
  • そこで正三は、生活の業を立派な行為と考え、「心掛け次第で労働をそのまま仏行となしうる」と考えた

正三の思想では、一生懸命に働くのは、経済的な意味合いよりも、「仏行の他成(ほかなる)作業有るべからず」と信じ、仕事を通じて自分を高め、理想的な社会を作るためです。 

この教えの影響は現代の日本人も強く受けており、世間のために働くこと自体に美徳を見出す国民性となっています。

現代では、田坂広志氏が名著「仕事の思想」で働く意味を私達に問いかけています。

ということで、冒頭の斎藤さんの以下の言葉

「どんな立場でも仕事は全力を尽くすもの」
「たとえアルバイトであっても、全員が全力で取り組む職場。私の夢でもあります」
「….培ったこの精神さえあれば楽しんで生きていける。そう思いながら私はきょうも『つばさ』に乗っています」

…は、この正三の考えが現代の日本人にも脈々と受け継がれていることを示しています。