大人の日本へ、「自由と繁栄の弧」

1年半前のものですが、麻生太郎さんが外務大臣をなさっていた時に講演した『「自由と繁栄の弧」をつくる』という演説の内容がこちらで見ることができます。

ちなみに、英語版 "Arc of Freedom and Prosperity: Japan’s Expanding Diplomatic Horizons"もあります。

寡聞にして、「自由と繁栄の弧」という概念は今まで知りませんでした。

この提言からは、戦前のように尊大ではない、高度成長期のように卑屈でもない、等身大の大人になった日本の姿が見えます。

もともと、日下公人さんのコラム「日本の経験がこれからの世界を動かす」で初めて知ったものですが、日下さんもおっしゃっているように、これはアジアの中にあって日本だからこそ出来る提言であり、素晴らしいものだと思います。(ただ、日下さんのコラムのコメント欄を見ると賛否両論ですが)

多くの日本人が、日本がこのような提言をしていることを知らないが残念。

マスコミには、このような情報をもっと流していただくことを期待したいところです。

しかし、もともとマスメディアは、刺激的な情報をテーマとして取り上げて、大衆の注目を集める性格を持っています。

外務大臣の「自由と繁栄の弧」という演説よりも、一般大衆が見たがるワイドショー的な事件を追いかけ、日々の進捗を放映するのが、現在のマスメディアです。

マスメディアの性格は容易には変わりません。このことを嘆いていても何も変わりません。

ということで、私達一人一人が、ブログやインターネットのようなメディアで、もっと主体的にこのような情報に接し、かつ受けた情報を解釈してさらに情報発信していく草の根的な行動が、日本全体を変えていくことに繋がっていくのだ、と信じながら、今後もブログを書き続けていきたいと思います。

実は円高ではなく、円安である

前回に引き続き、4月16日の日刊工業新聞に掲載された、早稲田大学教授・元大蔵省財務官の榊原英資さんのインタビューからの引用です。

—(以下、引用)—

–産業界には最近の円高にも警戒感があります。

「一般に今が極端な円高だという認識が欠けている。たとえば1ユーロ=160円水準は大幅な円安だ。日本の競争力なら120円くらいでやっていけるはずだ。ドルについても、いまの1ドル=100円は10年前の125円に相当する。この10年で米国は平均2.5%の物価上昇があったが、日本はゼロだった。これを計算しないといけない。日本企業は今の為替水準でも大きなメリットを受けている」

「これまでの円安は内外の金利差が生んだバブルだ。しかし米国の利下げによって金利差は縮小する。この1-2年の間に円安バブルが崩壊するだろう。夏までに90円をつけると見ている。その先は80円もありうる」

—(以上、引用)—

確かに、私達は現在の円/ドル換算値だけを見て、1ドル79円75銭を付けた1995年になぞらえて、「円高である」と思い勝ちですし、一部のマスコミでもそのように伝えています。

例えば、テレビのニュース等では、日本を旅行中の外国人旅行客が「いやぁ、こんな円高になって大変」と言っているところを取材しています。

また、株式市場では、輸出型企業の株価が円/ドル換算値に対して敏感に反応しています。

しかし実際には、日本から欧州に旅行したりすると、ユーロ高で買い物も結構厳しいようです。

「実は、円安バブルである」という洞察、さすが「ミスター円」の榊原さんらしいご指摘と思います。

榊原さんの考え方では、1ドル80円でも、実際には10年前の100円に相当する訳ですね。

さらに1995年並の円高となる80円は、現在の換算値では64円になります。これはかなり強烈ですが、榊原さんはそこまでは言及していません。

このような広い視野に立った意見は、常に把握していきたいところですね。

フラット化する世界、ガラパゴス化する日本?

このエントリーの最後に書いているリンク先でも何回か書かせていただいたように、世界は急速にフラット化しており、最近ますますその変化のスピードが速くなっています。

一方、このフラット化する世界の中で、日本でもフラット化が進んでいる分野もあれば、完全に取り残されている分野も多くあります。

4月16日の日刊工業新聞に、早稲田大学教授・元大蔵省財務官の榊原英資さんのインタビューが掲載されていますが、フラット化する世界の中での日本の位置づけについて、非常に洞察に富んだ内容でした。

—(以下、引用)—

–(日銀総裁の)決定の過程で、かなり混乱しました。

「『ねじれ現象』とは権力の分立。米国ではしばしば起きていて、今も大統領は共和党で議会は民主党だ。その中での調整に、福田さん(首相)も小沢さん(民主党代表)も慣れていない」

—(以上、引用)—

フラット化する世界では、政治の世界でも分かりやすさが大事です。

そのためにはちゃんとした議論ができることが前提です。

榊原さんのご意見は、以前、私が「問題は、「ねじれ国会」ではない」で書いた内容と同じ視点で、全く賛成です。

—(以下、引用)—

-製造業はどうあるべきか。

「今までのような高価格製品は新興市場では売れない。典型的なのは携帯電話だ。日本の若者に特化して開発をしてきたから高機能・高価格すぎて、全く国際的な商品ではなくなってしまった。これは日本という特殊な市場に適応した『ガラパゴス化』だ」

「インド市場を見ていると、ソニーもパナソニックも売れていない。サムソンとLGばかりだ。携帯電話以外でもガラパゴス化が起きているのではないか。自動車だって高級品ではなくなりつつある。インドのタタグループが28万円の自動車を売り出す意味を考えるべきだ。これまで日本は欧米では成功したが、今後は中国やロシアで売れる製品を作れない企業は没落する。そうした危機的な状況にあることを国のレベルで考えなければならない」

—(以上、引用)—

フラット化する前の世界では、競争はグローバル規模ではありませんでした。

従って、ある程度の市場規模(クリティカル・マス)がある日本市場内で、有力企業同士が激戦し、そこで商品を鍛えて、勝ち抜いた商品を欧米市場へ持って行くことで成功する、という戦略が有効でした。

フラット化する世界では、競争はグローバル規模です。

この市場では、強みを徹底的に活かした商品をグローバルに提供することが必要です。従って、自国の市場規模は制約にはなりません。

携帯電話で成功しているフィンランド、韓国、いずれも国内市場規模だけでは商品に必要な投資を回収できないので、グローバルで勝負せざるを得ません。

しかも勝負はリアルタイムです。国内で成功したモデルを海外に、….という時間はありません。

従って、現在は新興国も含めたグローバル市場でのリアルタイムな競争にあっており、タイム・トゥ・マーケットが勝負の分かれ目になります。

今までのやり方を続けると、急速に日本がガラパゴス化する可能性があります。

「別にグローバルで競争する必要はないのでは?」

という意見もあるかもしれません。

しかし、日本自体がグローバル経済に深く組み込まれており、フラット化する世界のメリットを享受しています。

メリットを享受する以上、上記のようなデメリットを回避するのは難しいのではないでしょうか?

例えば極端な話ではありますが、日本のガラパゴス化が進み、フラット化する世界でお金を稼げるビジネスが育たないと、食料自給率39%の日本で十分に食料が調達できず、将来的に飢餓が発生し、最悪の場合は餓死者が出る可能性もゼロではありません。

実際、食料品は高騰していますし、一部の国では輸出規制を始めています。

 

我々日本人は、存在する問題についてコンセンサス(空気)が得られれば、非常に速く対応し、問題を解決できる傾向があります。

そこで提案です。

日本で問題意識を共有し、課題解決を図るために、「フラット化する世界、ガラパゴス化する日本」という言葉を是非日本で流行らせて、「ガラパゴス化、回避すべし」という空気を作ってはどうかと思っているのですが、いかがでしょうか?

できれば今年度の流行語大賞が取れればベストかも。

ただ、そもそも空気というのは作るのは難しいやっかいなものではあるのですが。

 

【関連リンク】
■2008/01/10 世界各地で猛烈な勢いで加速する、グローバル化の流れ
■2007/12/29 音楽CDを作ってみて考えた、フラット化する世界
■2007/12/14 フラット化する北朝鮮(2):NYフィルが平壌で初公演
■2007/11/16 フラット化する北朝鮮
■2007/07/09 数字ではっきり分かる、日本のグローバル化
■2006/11/29 フラット化する世界で、必須なスキルとは?
■2006/11/20 「多国籍企業」と「グローバル企業」、どう違うか?
■2006/06/28 日本流とグローバル統合
■2006/06/23 はじめてフラット化を意識したのは?
■2006/03/14 10のフラット化要因が生み出した3つの潮流
■2006/03/13 "The World Is Flat"が示す、世界フラット化の要因(2)
■2006/03/10 "The World Is Flat"が示す、世界フラット化の要因(1)
■2006/03/08 "The World Is Flat"が示す、グローバル経済の変革

顧客至上主義の呪縛

1980年代後半に米国に出張した際の出来事です。

冬だったのですが、うっかりしてレンタカーのスモールライトを消し忘れて、一晩駐車場に置いてしまいました。

当然バッテリーがあがってしまい、翌朝はエンジンがかかりません。

仕方なく数日間、一緒に出張した上司の車に乗せてもらいました。

米国人の同僚達にバッテリーがあがってしまったことを話したところ、皆が異口同音に

「それは即刻、レンタカー会社にクレームすべきだ」

と言いました。

「いや、スモールライトを消し忘れたのは私のミスだし…」

と私が言っても、

「一晩つけっ放しにしただけでバッテリーがあがるなんて。信じられない」

と怒っています。

結局、私はレンタカー会社にクレームする勇気もなく、ホテルに頼んでバッテリーを繋いで起動できました。

この経験で、

「米国という国は、自己主張するのが大前提の社会なのだな」

と思うとともに、

「しかし、こんなことまでクレームを主張する米国には、ちょっとついていけないな」

とも思いました。

 

本日(4/15)の日刊工業新聞で、弁護士の深澤直之さんが「クレーマー対策ABC」という記事を書かれていました。

—(以下、引用)—

クレーマーに煩わされる最大の原因は企業には「顧客至上主義の呪縛」、役所には「市民至上主義の呪縛」があり、その呪縛が強く、呪縛から解かれがたいことにある。相手が「ありがたい顧客」や「善良な市民」である以上、クレームを受けたとき無碍には扱えず、「相手の感情を損なってはいけない。大事に至らぬよう、丁寧に説明責任を尽くし、穏便円満にご納得頂くことに誠意をもって尽力すること」、これこそが正に「クレームの処理」という誤った認識がまん延していることにある。

日本がクレーマーがまん延する情けない今の社会に成り下がったのは、日本人が美徳として皆誰もが自然に持っていた「相手方を思いやる心」が欠落したからである。権利主張しなければ損、自己責任を他人のせいに責任転嫁する風潮、それは個性を尊重しすぎの個人主義の偏重教育の誤りと非難すること自体は優しい。が、困惑させられている方々のため対症療法を、具体的に、次週から説いていくことにする。

—(以上、引用)—

「権利主張しなければ損、自己責任を他人のせいに責任転嫁する風潮」というのは、私がまさに20年前に米国で実感したことです。

深澤さんがおっしゃっているように、私が米国で20年前に体験したこととまさに同じ状況が、現在の日本で発生しているように見えます。

ちなみに、米国は現在どうなっているかというと、さらに進んでいて、この記事のような状況のようです。

1年間使用して故障した商品を平気で返品するその考え方は、さすがに理解できないですね。

米国人の中でも一部なのでしょうけれども。

私が20年前に驚いたことは既に日本では常態化していますが、このような現代の米国の風景が日本でも当たり前になる日は、来ないような社会にしたいですね。

多数決は最悪の意思決定方法?

民主主義的に意思決定する際、最後は「では、多数決で」と決議することが多いと思います。

しかし、多数決そのものは、民主主義ではありません。

私自身は、民主主義とは、異なる立場の意見をお互いに話し合い、理解しあい、相手のよい部分は取り込み、自分のよい部分は相手に認めてもらい、より高いレベルの解決策を見出していくプロセスである、と理解しています。このためには論理的な議論が必要です。

多数決に持ち込まざるを得ない、ということは、このようなプロセスが十分に働かず、より高いレベルの解決策が見出せなかった場合に起こります。

複数人候補者がいて誰かを選ばなければならない選挙のような場合は、多数決を採らざるを得ませんが、それでも議論しあってよりよい解決策を話し合うプロセスは選挙でも行われています。

このような観点で現在の国会を見ていると、長い間「多数決」でのみ意思決定してきたツケが一気に出た、という印象を持ちます。

戦後、一時期を除きほぼ一党独裁だった自民党は、与党である立場を使って、主に党内調整で政策決定し、多数決の論理で力で押して決議してきました。

いわゆる「ねじれ国会」で、法案を通すために、はじめて反対意見と真正面から向き合うことになりました。

しかし、与党はなかなか相手の立場を理解した提案ができていません。

一方の野党もまた、原理原則に固執し、議論できていません。

これは、民主主義の根幹をなす弁証法の前提である「反対の意見をぶつけて、徹底的に議論を行い、よりよいものを一緒に作っていこう=正反合」というモチベーションが働いていないからなのではないでしょうか?

 

ここ数ヶ月間、このような思考停止状況が続いていましたが、日銀の白川総裁がほぼ決まる見込みですし、あの小泉さんも出来なかった道路特定財源の一般財源化も野党の強い反対を受けて進みそうです。

今回のいわゆる「ねじれ国会」の騒動では多くの混乱がありました。

これが、「多数決」のみに依存していた日本の意思決定構造が変わっていく契機にしたいですね。

ガソリン、値下げすべきか? 否か?

暫定税率期限切れで、4月1日からガソリン税率が下がっています。

消費者から見ると、

「税金が下がっているんだから、即日下げるべきだ」

と思い勝ちですが、実際には「蔵出し税」なので、4月1日の時点で店が在庫として持っているガソリンは、旧来の高い税金がかかっています。

従って本来は、

「旧来の税金を払って入荷したガソリンは、旧来の高い価格で売る。この在庫が切れて、4月1日からの新しい税金を払って入荷したガソリンを売る時点で、値段を下げる」

というのがロジカルな対応のように思えます。

しかし、この辺りは明確なガイドというものがありません。

しかも消費者にとっては、上記の対応は非常に分かりにくいものです。

実際には、販売価格を4月1日に即日下げる店と、下げずに旧来価格で売っている店に分かれているようです。

価格を下げた店には「待っていました」とばかり早朝から長蛇の車の列が並んでいる様子をTVのニュースで放映していました。

当然ですが、下げない店には、今までよりも来るお客様は減ります。商売になりません。

そこで、値下げをする店も増えているようです。

一方で、租税特別措置法改正案が再可決される4月末、再度ガソリンが元の価格に戻ることが予想されています。

従って、下記4つのパターンが考えられます。

パターンA: 「4月1日は即日値段を下げる。5月は低い税率で仕入れた在庫がなくなるまで安い価格で売る。在庫がなくなったら元の価格に戻す」

パターンB: 「4月1日は即日値段を下げる。5月に税率が元に戻った時点で、在庫に関係なく元の価格に戻す」

パターンC: 「4月1日は即日値段を下げず、旧来の税金を払って入荷したガソリンがなくなった時点で値段を下げる。5月は、低い税率で仕入れた在庫がなくなるまで安い価格で売る。在庫がなくなったら元の価格に戻す」

パターンD: 「4月1日は即日値段を下げず、旧来の税金を払って入荷したガソリンがなくなった時点で値段を下げる。5月に税率が元に戻った時点で、在庫に関係なく元の価格に戻す」

パターンBとCがロジカルな対応、パターンAは本来の利益を削った過剰サービス、パターンDはこの機会に乗じて儲けようとしているケース、ということになるのでしょうか?

一方で、今や価格比較サイトでどのガソリンスタンドが安いか、消費者はすぐに分かる時代です。

従って、パターンDの場合はお客さんが来ないので、実際にはパターンBにせざるを得ない店が多いように思います。

結局、消費者が強いので、利益を圧迫する、ということなのでしょうか?

 

政治の混迷によるツケが、民間業者を混乱させています。

このような事態が予想されたのに回避できなかった与党。

一方で、「昨年の参院選の一票一票を、このような結果に繋げることが出来た」と言っている野党。

世界全体の中で、課題山積みの日本にあって、本来、このようなことで時間と政治的パワーを浪費する余裕はないはずですが….。

日銀総裁で迷走する国会

明日任期満了でほぼデッドラインとなっても、明後日からの日銀総裁がまだ決まらず、です。

あの百戦錬磨の国会議員の先生方が、ここまでちゃんとした議論ができないとは….。

先日書いたエントリー『問題は、「ねじれ国会」ではない』では、国会議員の先生方が自己主張するだけで議論が全く出来ていない、ということを申し上げました。

しかし、最近の議論を見ていて、どうもそれだけではないような気がしてきました。

一般に、日本人が論理的な議論ができないか、というと、そんなことはないと思います。

企業の中の議論は、その議論の前提となるビジネスの目的が比較的明確です。従って、例えば「お客様のためにコレをやる」という視点が明確にされている限り、明確な議論を通じて意思決定と実行が可能です。

ただし企業でも、組織全体が病にかかっている場合は別です。

本来はシンプルな目的があるのに、個別の組織毎に様々な目的が派生的に生まれ、個別局所最適に走ってしまい、全体の方向性が見えなくなり、最悪の場合、最後には破綻します。

今の国会も、全く同様に見えます。

本来、「国民の利益と国益のために」議論する国会で、日本国の金融政策をいかにうまく舵取りできる人物を選ぶか、が、目的の筈なのに、党の政争の道具に使われている感があります。

時間はあった筈なのになかなか総裁候補を提示せず、しかも「財務省OBだからダメ」と却下されているのに財務省OBを代替候補として再提案し、「良識を持って判断して欲しい」とする自民党。

出してくる候補に対して、個別の議論をせずに原理原則論に固執し次々と却下する民主党、確かに、バラバラだった民主党は、こと日銀総裁については一枚岩です。

どちらも、国全体の利益を考えず、個別最適に走っているように見えます。

このようにしてみると、今回の問題は、国会議員の先生方の資質の問題というよりも、本来の目的を失ってしまい、組織全体が個別局所最適に走ってしまっている与党と野党の組織の病の問題が大きいように思います。

日本の様々な仕組みが「制度疲労を起こしている」ということは昔から言われていることですが、何らかのきっかけで、ゼロから再構築せざるを得ない時期が来るかもしれない、と思う今日この頃です。

やはり、小泉さんは、自民党を(そして民主党も)本当にぶっ潰すべきだったのかもしれません。

海外の識者は、今の日本をこう見ている(2)

英エコノミスト誌が、"JAPAiN"というタイトルの特集を掲載しています。Japanとpain(苦痛)を組合わせた造語です。

こちらに記事のサマリー(英語)がありますが、3月12日の日本経済新聞では、この記事のタイトルを「苦痛に満ちた日本」と訳して、概略を紹介しています。

それぞれの指摘は以前から言われてきたことですが、全体をまとめて構成して議論しており、耳が痛い指摘も多く、一読の価値ありです。

以下、要約して抜粋します。

—(以下、抜粋)—-

・日本は世界第二の経済大国にも関わらず問題の根本的な解決に取り組んでいない。

・日本経済の停滞は政治家のせいである。

・福田首相は求心力に乏しい。民主党はいまや成長を目指す経済改革どころか、あらゆる政策協議を滞らせる力を持つに至った。

・日本企業は10年前と比べてはるかに健全化し、債務は圧縮され事業の選択と集中も進んだが、生産性はきわめて低い。経営者が株主に対して説明責任をほとんど負わない経営環境が過剰投資を生んだのかもしれない。日本の投資に対するリターンは米国の半分。

・個人消費が伸びない原因も企業にある。記録的な利益を計上しながら、賃上げの形で払い出さずに現金をため込んでいる。雇用は増えても賃金水準は上がっていない。

・改革を断念した日本は低成長しか期待できない。この責任は、能力や先見性に欠ける政治指導者と政治の混迷にある。

・第一の責任者は福田首相。経済改革に関心があったとは思えない。愛国心教育などのお気に入りの国家主義的な取り組みに邁進した。

・第二の責任者は自民党内で隠然たる影響力を誇る旧世代の大物たち。政局が混乱すると福田氏を担ぎ出した。小泉・安部時代は首相官邸で下された決定権が、派閥の長老達の手に戻った。旧世代はクーデターに成功し、構造改革は滞り、貿易障壁撤廃に向けた交渉にもブレーキがかかり、財政均衡を目指す税制改革も先送りされた。

・第三の責任者は民主党の小沢代表。専横なワンマンの一面を持ち、僚友に相談せず取引をする傾向があり、透明性と説明責任を掲げる党首としては好ましくない。農村の比重が高い参院選では農家の味方を標榜し、昨年11月の大連立騒動では打倒自民の信念を翻した。

・さらに非難されるべきは参院と衆院を別々の党が支配する事態を想定していなかった憲法。さらに言えば、国家運営に関する選択肢を個人や一族郎党の利益を実現する手段として政治をもてあそぶ風土こそ問題。

・最後に、有権者も責任の一端を負うべきである。総選挙は、少なくとも政治家の選択基準を高めるチャンスをくれるはずだ。

—(以上、抜粋)—-

一ヵ月半前に「海外の識者は、今の日本をこう見ている」というエントリーを書きましたが、外部からの見方は、我々が気が付かない点を指摘してくれることも多く、参考になります。

現在の日本の問題は政治の問題という指摘ですが、最後に書かれているように、現在の事態を招いたのは誰のせいでもなく、現在のこの政治家達を選んでしまった我々一人一人の責任なのかもしれません。

幸い、民主主義国家である日本は、国民がこれらの政治家を選んだり、落選させたりすることが出来ます。

次回の総選挙は、全日本国民が真剣に為政者がどうあるべきかを考える選挙になることを願いたいですね。

低炭素社会への障害となる日本の「神話」

ここ数ヶ月間の日本経済新聞の社説は、地球温暖化に対する日本の取り組みに対して様々な提言を行っています。具体的な論拠に基づいて論じているので、説得力があります。

本日(2/25)の社説「低炭素社会への道-サミットへ向け日本の理念と政策を」では、ここ10年間日本で流布され続けていながら世界で通用しない「神話」を紹介しています。以下、要約しながら引用します。

—(以下、引用)—

■神話:京都議定書が日本にとって著しく不利だという根拠のないネガティブキャンペーン。安政以来の不平等条約、省エネが進んだ日本は乾いたタオルでもう絞れない、旧東欧を統合したEUは排出削減余地が大きく日本は不利、世界の排出量の40%をしめる米中が義務を負っていないから実効性がない……。

■事実1:京都議定書の親条約、国連気候変動枠組み条約(UNFCCC)は産業革命以来の累積排出量や現在の国民一人当たりの排出量を勘案し先進国と途上国は「共通だが差異ある責任」を果たすと決めている。京都議定書はその第一歩。全員参加の前の「お試し期間」として、まずは先進国が責任を果たす枠組みだから中国は義務を課されていない。それは日本を含む世界が合意したこと。米国は国益を理由に離脱。

■事実2:EU 8%/米国7%/日本6%という京都議定書の割り当ては本当に日本に不利なのか?6%のうち日本は森林が吸収する分として3.8%を認められ、海外での削減協力で1.6%まかなう。日本社会の実質削減目標はわずか0.6%。ドイツに認められた森林吸収はたった0.4%。省エネ大国を自称する日本に世界はちゃんと配慮している。

■事実3:日本がGDP当たりのCO2排出量が世界一低いのは家庭と運輸部門の排出が他の先進国より抜きんでて低いから。温暖な気候に加え、狭い家と国土が排出源単位を抑制している。オイルショック直後は文字通り世界一の省エネを誇っていた産業部門も、少し緩んだのか今は必ずしも世界一ではない。排出権取引を導入し、自然エネルギーの買い取り制度を強化したドイツは森林吸収分がわずか0.4%でも1990年比で20%近い排出削減を実現、経済成長も減速させていない。メルケル首相はこれで国際社会の信頼を得、昨年のハイリゲンダム・サミットで米国の交渉復帰と中印の参加を取り付けた。

—(以上、引用)—

日本の中で一方的にマスコミの情報に接していると、事実が見えにくくなり、比較的容易に事実を見誤ってしまいます。

このような時こそ、全体の空気に流されずに警鐘を鳴らし続けるマスコミの存在は貴重です。

また、我々も事実を積み重ねた情報に基づいて判断するようにありたいものです。

エネルギー資源大国ニッポン

現在、「日本は資源が少ない国」というのが定説になっています。

しかし、それを変えていこうという動きが、2月19日の日刊工業新聞の記事「海藻からバイオ燃料 資源大国ニッポン 2025年に」に掲載されています。

—-(以下、引用)—

三菱総合研究所は、海藻から天然資源を回収する構想「アポロ&ポセイドン構想2025」をまとめた。日本海で海藻を大量に養殖してバイオエタノールを得るとともに、海水に溶け込んだウランやレアメタルなども海藻に濃縮させて回収する。2025年に年間で2000万キロリットルのバイオエタノール、同1950トンのウランを得られると試算している。

—-(以上、引用)—

以下、記事の中からポイントを挙げてみました。

■二酸化炭素の吸収や海洋の浄化に繋がる

■原料は繁殖力の強い「ホンダワラ」で、トウモロコシのような食料用との競合もない

■バイオエタノール抽出は、既に実験室レベルで成功

■海藻の物質を濃縮して貯め込む能力を利用してウランを濃縮するように品種改良すれば、分解後の廃液から回収し吸着剤を使うことで天然ウラン鉱石と同等の0.1%程度に濃縮可能

■ちなみに、現在バイオエタノール生産トップのブラジルは年産1700万キロリットル

■年1950トンのウランは、原子力発電所で使用するウランの約40%に相当

■三菱総研では4月にコンソーシアムを発足予定。京都府立海洋センター、産業技術総合研究所、物質材料研究機構の研究者、大手機械、自動車、建設会社等が参加。

日本のエネルギー事情を根本から変革する、素晴らしい構想ですね。

このようなスケールの大きな夢のあるプロジェクト、日本ではここしばらくなかったように思います。

しかし、「プロジェクトX」にもあるように、高度経済成長期には、このような壮大なプロジェクトを成功させた例は数多くあったのですよね。

日本近海には世界最大規模のメタンハイドレートが埋蔵されているとも言われています。しかしこれも、酸素を消費して二酸化炭素を排出することには変わりはありません。

一方で、この「アポロ&ポセイドン構想2025」は二酸化炭素を吸収することで地球温暖化の抑制効果もあります。地球の環境保護に対する貢献度は非常に高いものです。

是非、日本の総力を挙げて技術開発を進めたいですね。

また、グローバルのスケールメリットを活かして展開してこそ、地球規模で温暖化を抑制する効果を期待できます。

日本だけに留めずに世界中で展開していただきたいですし、日本政府も、このような民間の取り組みを重点戦略分野として後押ししていただきたいところですね。

ただ問題は、このようなイノベーションに対して、グローバルの既存エネルギー大手資本と利害が衝突した場合に、どのように対処していくか、という点かもしれません。

この点でも、日本政府のリーダーシップを期待していきたいところです。

 

「資源小国」の日本ですが、実は過去、16世紀から17世紀にかけては、日本の石見銀山を中心とする銀産出量は、世界全体の1/3に達していました。ある意味では資源大国だった時期もあった訳です。

21世紀、天然埋蔵資源に頼らずに、知恵を活用することで日本が資源大国になるとすれば、これは大変素晴らしいことなのではないでしょうか?

空気を読まないマケインを評価する米国社会。日米は大人の関係に発展できるか?

2月5日の「スーパーチューズデー」で全米24州で行われた予備選や党員集会の結果、ジョン・マケイン上院議員が米国大統領選挙の共和党最終候補に指名されることが確実となったようです。

日本のメディアでは、「民主党最終候補に指名され、共和党に勝てば」初の女性大統領となるヒラリー・クリントンや、「民主党最終候補に指名され、共和党に勝てば」初の黒人大統領となるバラク・オバマを、大統領候補の中心に取り上げています。

しかし、谷島宣之さんの「米大統領選、マケイン氏報道に見る日米の情報格差」にあるように、日本では共和党候補のマケインはほとんど取り上げられていません。

古森義久さんの「共和党マケイン氏の“真剣な”日本観」によると、マケインは日本に対する理解が非常に深く、日米関係を非常に重視するようです。

ここで我々が注意すべきことは、「日米関係を理解し、重視する」ということは、「日本に対して優しい」ということではない、ということです。

むしろその逆で、対等のパートナーとして、言うべきことを言う人のようです。時には歯に絹を着せずに厳しいことも。

この辺りはとても米国人らしいように思います。

古森さんの記事では、過去の下記事例が紹介されていました。

■1989年当時の米国議会では日米貿易摩擦で日本非難がしきり。日本を標的とする保護貿易主義的法案が次々に出されていたが、マケインは日本非難法案には全て反対。「日本は米国にとって安全保障面であまりに重要な同盟相手だから、貿易面だけでの非難を日本全体への糾弾や否定に向けてはならない」という論理だった。

■ソ連崩壊以降、日本に対して日米同盟の強化策として防衛増強や負担増加を強く求めるようになった。一方で当時の米側リベラル派の間にあった「日本は防衛力を一定以上に強くすると、また軍国主義を復活させる」という日本警戒論には明確に反対。「日本がまた軍事大国になる、とか、軍国主義を復活させる、という説には、根拠がない。わたしはむしろ逆に日本の消極的平和主義のほうが問題だと思っている」と述べた。

■1990年7月、日本に在日米軍の経費負担増大を求める法案を上院に提出。翌月のイラクのクウェート軍事侵攻と占領に対し、何も行動を取らない日本に新たな批判を表明。「サダム・フセインの侵略を阻止する必要は諸国はみな強く認識し、米国の行動への支援を明確にしている。日本だけはその決意が不明。わたしはいま日本の友人たちにはっきりと告げたい。わずかな金額と言い逃れだけはもうたくさんだ。日本政府の形だけの支援表明は世界中の軽蔑と米国の敵愾心の対象以外なにものにも値しない」「もし日本が米国の友邦であることや世界各国との経済的相互依存を続けることを欲するならば、国際国家にふさわしい姿勢をとらねばならない。世界でも最も柔軟な憲法の陰に逃げ込んだり、少数の海運労働者や学生の抗議を口実にして消極的態度を続けたりすることはもうできないはずだ」

■「米国は日本が平和で安全で自由な世界のために危険をおかし、犠牲を払い、大国としての国際責任を米国などと分かちあうことを心から願っている。21世紀の世界の民主主義と平和のために自らの責任分担を果たしてほしい」

私自身は100%賛成は出来ない意見ではありますが、一方で、あくまで日本を対等な同盟パートナーとして見て、真剣に期待していることは評価できます。

日米関係だけではなく様々なテーマについても、自分自身の原理原則に従った発言を行っています。

例えば、昨年6月、マケインはブッシュ大統領によるイラク駐留の米国軍増強を積極支持し、米国世論調査でマケインの支持率が急落し「大統領選挙脱落?」と言われました。

しかしながら、現在も支持し続けています。

先の谷島さんの記事によると、このように不人気にも関わらず言うべきことは言う姿勢と発言に対して、英米の新聞や雑誌は絶賛しているようです。

—(以下、引用)—

イラクで負傷した兵士を見舞ったマケイン氏が「自分の政治家としての行末のことなんぞ、気にしていられると思うかね」と発言したことを好意的に紹介した。また、英エコノミストは「戦争に負けるくらいなら、選挙に負けた方がまし」というマケイン氏の姿勢を絶賛する記事を掲載した。

—(以上、引用)—

私自身はイラク戦争には反対です。

しかし、空気を読んで自分の立場を変えることを潔しとせず、自分の信念に従い、場合によっては共和党政権へ厳しい批判を行うマケインの姿勢は、恐らく欧米社会では多くの支持を得られるのでしょう。

考えてみれば、多くの米国人も原理原則で動いているのですが、恐らくその中でもマケインは特に顕著な人なのではないでしょうか?

自分の信念よりもその場の空気が大切な日本では、マケインのような政治家は決して支持されないでしょうし、そもそもそのような政治家はなかなか登場できないのではないかと思います。

小泉さんは他の首相と比較して比較的マケインに近いように見えます。

しかし、小泉さんの場合はむしろ大衆の空気を読む達人で、しかも自分でその空気を作り出すことができ、かつ周囲の空気に左右されないという日本人にしては稀有な才能を持った方だったので、大衆に圧倒的に支持されました。

マケインの場合、そもそも空気を読んでいないような印象を受けます。

このように原理原則で動くマケインが大統領になった場合、日米関係は新しい段階に入り、日本側も新しい対応が求められるのではないでしょうか?

なぜ、日本人の議論と米国人の議論が噛み合わないのか?

現在、米国では大統領選挙の予備選が行われています。

現在、激しい論戦の末、民主党と共和党の候補が決められ、その次に各党候補同士の論戦が始まり、選挙を行って大統領が決まります。

ディベートにつぐディベートを繰り返し、多くの候補をふるい落として最後に1人の大統領を決めるまでに、実に1年以上かけていることになります。

この大統領選挙を見ていると、「議論を徹底することで、よりよき民主主義政治を実現しよう」と考える米国社会の仕組みがよく分かります。

空気でモノゴトが決まり、国のトップである首相も選ばれていく日本では、このような仕組みは働かないように思います。

大統領選挙のように議論を徹底してモノゴトを決めていく米国の意思決定の仕組みと、日本でのモノゴトの決まり方を比較すると、日本人と米国人の議論が噛み合わないことが多い理由がよく分かるのではないでしょうか?

 

米国社会の場合、議論は、前提⇒理論⇒結論で構成されます。この際、下記の要素が含まれている必要があります。

・議論の結論が、前提から導き出されること
・その前提が、正しいこと
・その前提が、結論と関連性があること
・結論が、新しい事象が発生しても影響されないこと

前提に同意し、かつ、議論のロジックに同意したら、その結果として導き出される結論には、米国人は同意せざるを得ません。そのような構造になっているということです。

米国人と議論する際に、議論が一つずつ進むたびに、「ここまでの議論には、あなたは同意するか?」(Do you agree?)と米国人がしつこく聞くのは、上記のロジックを順番に検証しているためでもあります。

民主主義的な決定も、このロジックが基本です。大統領選挙でも、このロジックによる膨大な議論の積み重ねの結果、大統領が決定されます。

 

日本社会の場合も、議論は、基本的に前提⇒理論⇒結論で構成されます。しかし、一番重要なのは空気です。

前提に同意し、理論に同意しても、その結果導き出される結論には必ずしも同意するとは限りません。

「確かに理屈ではそうだが、実際は違う」とか、「今のそんなことをできる空気ではない。空気を読め」「KY?」ということになったりします。

仮に事実について議論を行っていても、論理的な部分を超えた部分で議論が進みます。民主主義的な決定も、必ずしもロジックに従わないケースが多くあります。

日本的な言い方をすると「理屈を超えたところで決定している」ということです。

 

日本と米国社会の議論が噛み合わないのも、ここに由来しているように思います。

日本人からすると、比較的ロジカルな考え方をするタイプの日本人でも、現実の世界では現実に併せて柔軟に方針を変えるため、米国型のロジックに徹した議論についていけないように思います。

米国人からすると、ロジックを組み立てた議論を行っている最中に、それまで積み立ててきたロジックを無視した議論を行ってくる日本人が理解できず、フラストレーションが溜まるようです。

草枕ではありませんが、「智に働けば角が立つ」と言われたりすると、"Why!?"と全く理解できないのです。

困った米国人が「なぜ?」「どうして?」と日本人に尋ねても、"You do not understand the reality."(「現実は違う」)と返答され、「じゃぁ、その現実を説明してくれ」と言っても、日本人同士では暗黙の了解でよく分かっている現実を、米国人には論理的にうまく説明できない、ということがよく発生します。

どちらがよい、悪い、という問題ではありません。

ただ、この違いが様々な摩擦を生んでいることも事実です。

最近の米国人の中には、なぜ自分達と日本人と議論が噛み合わないか、彼らなりに勉強している人達もいるようです。

なぜ議論が噛み合わないのか、まずは相手をお互いに知るところから、理解が始まるのではないかと思います。

 

ちなみに、先に紹介したロジック主体の米国型議論に対抗する方法は、以下の通りです。

先に述べた通り、議論は下記で構成されますので、…

・議論の結論が、前提から導き出されること
・その前提が、正しいこと
・その前提が、結論と関連性があること
・結論が、新しい事象が発生しても影響されないこと

これを個別に検証していくことになります。

・議論の結論が、前提から導き出されているかどうか?
・前提が、正しいかどうか?
・前提が、結論と関連性があるのか?
・結論が、新しい事象により影響を受けないか?

ちょっと難しくなりましたので、例を挙げます。

例えば、以下のようなケース。

多くの関西人はタイガースファンである。

鈴木さんは関西に住んでいる。

従って鈴木さんはタイガースファンである。

「あ!あなたは関西人なんですね。じゃぁ、タイガースファンでしょ」と短絡するケースですが、言うまでもなく、関西人の鈴木さんがジャイアンツファンの可能性もあるので、この議論は間違っています。

これは非常に分かり易くした例なので、間違いがすぐ分かります。

しかし、米国人は複雑な状況でこのような構造の議論をあえてふっかけてくることがあります。逆に日本人はこのような不完全なロジックを持って議論に臨み、論破されがちです。

もう一つのケース。

全ての関西人はタイガースファンである。

鈴木さんは関西に住んでいる。

従って鈴木さんはタイガースファンである。

この場合、組み立てたロジックはそれなりに正しいのですが、「関西人は全てタイガースファン」と決め付けている前提が間違っています。これも複雑な状況ではだまされやすいロジックです。

非常に分かり易い例を挙げました。

 

さて、上記のような議論を行って、米国人との関係が悪くなるでしょうか?

私のささやかな経験からいうと、そんなことは全くなく、むしろ関係はより親密になることが多いようです。

欧米社会は、弁証法的思考で動いています。

弁証法的思考とは、議論を通じてお互いが抱える問題の本質を探り出し、よりよい結果を得ようとする考え方です。このためには、様々な異なる意見を出し合って、建設的に議論を行っていく必要があります。

「正・反・合」…つまり、正反対の意見を含めて議論し尽くすことで、新しい価値を生んでいくのです。

このための考え方が、弁証法的思考です。

欧米社会では、歴史的にこの思考形態で様々な対立する問題を解決してきました。社会の中に、この考え方が浸透しています。

そして、この思考形態は、様々な価値観を持つ人達で構成されるグローバル社会では、ある意味で標準的な手法でもあります。(欧米社会でも東洋思想も取り入れ始めてはいますが、残念ながらまだ少数派です)

このような社会では、異なる意見は、「現在の問題を解決し、よりよきものへと発展させるためのの貢献」として歓迎されるのです。

逆に、意見を持たない者は、「よりよきものへ発展させようとする貢献意欲が乏しい者」と見なされます。

「日本人の空気による議論の進め方」と、「欧米社会によるロジックの積み重ねによる議論の進め方」。

繰り返しになりますが、どちらが優れている、というものではありません。

ただ、グローバル社会では、ロジックの積み重ねによる議論の進め方が主体であることは事実です。

グローバル社会と関わっていくためには、我々もこの方法を身につけていくことが必要なのではないでしょうか?

海外の識者は、今の日本をこう見ている

恐らく、自分も含めて、日本人程、他国から自分達がどのように見られているかを気にする国民はいないのではないでしょうか?

実際、外から見る目は結構正確だったりします。 

現在、日本の将来について悲観的な内容が各種メディアから出されています。

このような場合、日本についてよく知っている海外の識者の意見は結構正確で、ともすると我々の行き過ぎた見方を正してくれます。

本日(1/30)の日経金融新聞の記事『ZOOMウォール街 コロンビア大学ヒュー・パトリック氏―日本再生カギはどこに』で、米国での日本経済研究の最高峰、コロンビア大学経営大学院日本経済経営研究所・ヒュー・パトリック所長が日本再生のカギについて語っています。

参考になりましたので、ポイントを引用します。

—(以下、引用)—

■世界的にリスク過敏症で、そのうち日本にも投資資金が戻ってくる。だがメーンバンクによる企業統治の時代が終わり、株主や労働者ではなく、経営者に権力が集中しすぎる『独裁経営』は好ましくない。

■公的債務はGDPの170%の規模だが、政府が貸し手の債務が半分ある。純債務ベースでのGDP比は85%と欧州と同じで、持続的成長が可能な水準だ。消費税率を上げるために『我々は危機的状況にある』と主張する霞が関の一部に国民が洗脳されている。金融政策だけでは景気循環に対応できない

—(以上、引用)—

上記視点は現時点では日本では少数派ですが、増税必要論は財政の観点でも必要性は全くないというのは、経済評論家の森永卓郎さんと同じ指摘であり、私も同感です。

—(以下、引用)—

■そもそも海外情報の不足が日本の弱点だ。今後、個人の金融資産や年金資産を有効活用するうえで、海外投資は必須。日本の株式が歴史的に割高だったのは国際投資が盛んでなかったからだ。これまで海外情報は総合商社などに依存してきたが、国としての情報収集力が落ちている

■英語力の低さも懸念している。英語教員の受け入れプログラムなど国際的な人材交流への予算が減った。国としての情報収集には、英国のほうがはるかにカネをかけている。経済指標などはサンプリングがバラバラで、国内でも情報力に重きが置かれていない

—(以上、引用)—

第二次世界大戦でも、日本の軍部は情報収集を軽視していましたが、この体質は改まっていないようです。

先日も「極めて危険な、空気読み過ぎ+思考停止する日本」で書きましたように、日本の社会が全体の空気だけで主観的に動く時代は、日本は客観性を失い、独善的になり、暴走して破綻する可能性が増します。

—(以下、引用)—

■米国における日本研究の柱は歴史、言語、文学で、人気が衰える気配がない。経済におけるウエート低下は、他のアジア諸国を過小評価してきた米国アカデミズムの問題だ。日本人が常に自己を悲観的にとらえる自虐主義には驚く。教育や医療の面で日本の最低所得者層10%は米国の同層よりも立派な生活をしている。恵まれた国だ

—(以上、引用)—

確かに指摘の通り、「自虐」と「悲観」は日本人の特徴のように思います。

過去の歴史では、日本人が楽観的になり躁状態になると、戦争に突入したり、バブル経済を起こしてきたりしました。

逆に、課題が山済みで悲観的な状態の時ほど、課題を解決し順調に発展してきたように思います。

確かに少子化・高齢化・経済の停滞、どれも大きな問題ではあります。

しかし、非常に悲観的な現在は、裏を返せば、解決可能な、実はそれ程深刻な問題ではないのかもしれません。 こちらに書きましたように、東大の小宮山総長がおっしゃる「課題先進国・日本」という言葉は、まさにそれをあらわしています。

しかし一方で、全体がこのように「色々ある。しかし問題ない」と思い始めたら、それはまた暴走する危険な兆候でもあります。

難しいものですね。

改めて考えた、「フラット化する」という意味

今日、いつも通り早朝出勤してオフィスに入った時のこと。

社員がほとんどいない朝早い時間は、オフィス掃除のためには絶好の時間帯のようで、誰もいないロビーや玄関を掃除なさっている方々がいました。

掃除といえば、先日のテレビで、あるロボット展覧会で、自由に走り回って掃除をするお掃除ロボットが試作され、動いている様子が放映されたのを思い出しました。

そこで、1階からオフィスのある10階に向かうために、エレベータのボタンを押しながら、考えたこと。

■「もしかしたら、未来の日本のオフィスでは、そんなお掃除ロボットが、時間帯に全く関係なく掃除をするようになるのではないか?」

⇒「働き手が少なくなる日本では、やはりこのように技術活用で生産性向上を図っていくしかないのだろうなぁ。つまり、技術立国・ニッポン、ということか」

⇒「でも、待て待て。そのような技術は、フラット化した世界の中では瞬く間に世界中に拡がり、当たり前になるはずだ。技術立国・ニッポンだけがその技術を享受するわけではない。これはどういう意味だ?」

⇒「つまり、世界中の未来のオフィスで、お掃除ロボットが掃除をする光景が見られる、ということだ。便利な技術は、瞬く間に世界隅々まで普及するのだ。」

⇒「やはり、フラット化する世界とは、世界のどこかで生まれたイノベーションを、世界中で享受できると言うことだ。」

⇒「つまり、我々のうち誰か少数チームで開発した最先端技術が、世界中に瞬く間に普及するのだ。」

⇒「このような世界で、我々はどうすればよいのか?」

⇒「それは、やはり今まで言い古されたことだが、自社ならでは、の尖ったオリジナリティがますます重要になってくる、ということだ。」

⇒「つまり、各要素全てが平均点以上、というのは、あまり意味がないのかもしれない。これはコモディティ化に他ならないのだから、価格勝負になる。」

⇒「ウォルマートのようなスケールメリットを活かしたコスト・リーダーシップ戦略を取れる企業は世界中に限られている。従って、このような例外を除き、日本は価格勝負は避けるべきだろう」

⇒「全部合格点を取るよりも、大胆に何を切り捨てて、どれで満点を取るかを考えていく必要があるのだ」

⇒「つまり、ブルー・オーシャン戦略だ。なるほど、フラット化する世界と繋がっていたのか!」

⇒「考えてみたら、これは企業だけの話ではない。個人の生き方も全く同様なのではないか?」

⇒「人間はみな違う。全てについて合格点を取る必要はない。」

⇒「私の場合、自分ならではのアイデンティティは、一体何なのか?」

と、ここまで考えたところで、自分のオフィスにつきました。

極めて危険な、空気読み過ぎ+思考停止する日本

昨年の流行語大賞にノミネートされた「KY」。

「あいつ、KYじゃん」ということを若い世代の人達が言うのを見ていると、聖徳太子が「和を以って貴しとする」と言った頃からの空気を大切にする日本人らしさは、確実に若い世代に受け継がれていると実感します。

同じく、「そんなの関係ねえ」も流行語大賞のベスト10に入りました。

流行語というのは、その時代の世相を非常に的確に反映します。

この二つに共通していることは、理屈に合わないことを押し通す場合に、極めて有効であること。

そもそも、「KY」というのは考えてみれば怖い言葉です。

何となく浮いていて気に食わない誰かがいると、「あいつ、KYじゃん」の一言で、論理な説明をすることなく、コミュニティから抹殺できます。

「そんなの関係ねえ」も同様で、まずい立場に立たされたらこの言葉で開き直ることができます。

まぁ、とは言っても、実際に小島よしおのように「そんなの関係ねぇ」と開き直る人は、滅多にいないでしょうけれど。 逆に、実社会ではこのように開き直れないというフラストレーションがあるからこそ、その気持ちを代弁してくれる「そんなの関係ねぇ」が流行語になったのかもしれません。

このような発言をすると、

「えー、半分シャレなんだし、そこまで厳しく言うのは無粋じゃない?」
「もしかして、KY?」

って言われるかもしれません。でもとっても気になります。

気になっていたところで、先日、NBonlineの津本陽さんのインタビュー記事「今なぜ竜馬なのか――富国ということ 津本陽著『商人龍馬』」を読んで、気になっていた理由が明確になったように思いました。

—(以下、引用)—

….。実は、最近の日本は少し変になってきた気がするのです。アフガニスタンの治安維持活動の一環として自衛隊をインド洋に派遣することなどは、その表れではないかと思います。

自衛隊による洋上給油そのことの良否を言っているのではありません。決め方が不透明でなし崩し的でしょう。日本の歴史を振り返って、このような決め方をする時が一番恐ろしいと申し上げたいのです。

近代軍備を整えたロシア軍に対して、鉄砲と手榴弾で立ち向かい全滅したノモンハン事件があったでしょう。…….。1000台以上の戦車が前にも横にも砲身をこちらに向けている中を、士官が「行け」と怒鳴って兵隊を突進させたわけです。そこが屠殺場と化すのは分かっているのにですよ。

しかも、あんな永久凍土の土地を占領しても何にもなりません。にもかかわらず軍隊のメンツだけで信じられない戦争に日本を引き込んでしまった。

….。この国をどう発展させるか、そのためには何をしなければならないかという最も大切なことを忘れて、目の前にあることだけにとらわれて行動する。しかも、それがつまらないメンツが動機になっている。

今の日本も、同じような道を進み始めたのではないかと危惧するのです。明治維新も竜馬がいなければどうなっていたか。竜馬の考えと行動をもう一度、日本人が見直すべきなのではないかと思ったのです。

—(以上、引用)—

津本さんが指摘されているように、あの頃も、ノモンハン、ガダルカナル、インパール、他の例を挙げるまでもなく、軍部では、論理ではなくその場の空気でモノゴトが決まっていきました。

そして世間では、戦争に向かう社会全体の空気に逆らう人に対して、当時は「KY」ならぬ「非国民」というレッテルを貼りました。

戦争末期には日本全体に厭戦気分が漂い「戦争は真っ平」という空気がありましたが、戦争の当初は日本全体が緒戦の戦勝に酔った空気が漂い、日本全体がズルズルと泥沼の中に入ってしまったこともまた、我々は認識すべきではないでしょうか?

論理が排除され、思考停止状態になり、空気でモノゴトが決まっていく日本。

これ、極めて危険です。

先日のエントリー「幻想の省エネ大国・日本?」でも述べた通り、最近、日本でもその兆候が見られます。

一旦、日本全体が空気だけでモノゴトが決まってしまうモードになると、論理的な議論が極めて難しくなります。

そうなる前に、思考停止状態に陥りかけている社会に対して、私達一人一人が自分の頭で考え、本来何をすべきなのかを問いかけていく必要があります。

常に論理的である必要は必ずしもありません。

しかし必要な時は、「あなた、KY?」と言われても、論理を通し、逆に「そんなの関係ねえ」と開き直るべきなのかもしれません。

社会は、他の誰かが変えてくれるのではありません。

社会を変えられるのは、他の誰でもなく、自分達一人一人です。自分が変わらない限り、社会は変わらないのですから。

幻想の省エネ大国・日本?

「日本は世界で最も進んだ省エネ先進国。他国が追従できないダントツのこの分野で、日本は世界に貢献できる」と思っている人は多いと思います。

私自身もこのように信じていました。

しかし、世の中一般に言われていることが本当に真実なのか、改めて事実に基づいてよく考えてみることは重要です。

最近の日本経済新聞・社説では、日本の省エネ大国論に対する疑問を何回か取り上げています。

昨日(1/21)の社説でも、下記のような指摘がありました。

—(以下、引用)—

世界に冠たる省エネ大国、省エネ技術ナンバーワンなどと、半ば枕ことばのように使われ、日本の産業が世界一の環境技術や効率を達成しているようにいわれているが、その前提は確かなのだろうか。

結論から言うと、1970, 80年代は日本は他の先進国を圧倒する省エネ大国だったが、その後エネルギー需給がゆるんだことで省エネの手もゆるんだのか、炭素税や気候変動税を導入した欧州勢に追いつかれつつある。生産量当たりのエネルギー消費では、鉄鋼などでは英独仏にすでに抜かれ、製紙ではドイツに大きく水をあけられている。

日本が国内総生産当たりの二酸化炭素排出量が世界最少のレベルにあるのは、他の先進国に比べて排出が1/3程度と少ない家庭と、極めて効率的な運輸部門のたまものである。手狭な住宅と満員電車と温暖な気候のなせる業ともいえなくもない。

—(以下、引用)—

さらに、1月3日の日本経済新聞の記事「単位当たりCO2削減、日本、ペース鈍る、内閣府分析、独などに見劣り」では、政府の調査結果として、上記を数字で裏付けています。

—(以下、引用)—

日本のCO2の排出削減ペースが世界的に見て緩やかなことが内閣府の分析で分かった。

世界の主要国について、物価水準を調整した購買力平価ベースのGDPを算出。このGDP百万ドルに対するCO2の排出量を75年から2004年まで内閣府が算出した。

…..75年の排出量は日本が539トン、米国は1061トン、ドイツは843トン。2004年までに日本は31%減らしたものの、米国は48%、ドイツは54%削減した。

この結果、2004年の百万ドル当たりのCO2排出量は日本が371トン、ドイツが387トンでほぼ同じ水準になっている。….日本は85年に400トンを下回ってから削減のスピードは上がっていない。

日本はCO2など温暖化ガスの総排出量が、京都議定書における削減目標の基準年である1990年度と比べて2006年度は6.4%増えた。国内の経済界では「日本の排出量は1990年と比べ増えているが、使用効率は高く一単位当たりの排出量は少ない」との主張が一般的。だが、使用効率で海外の先進国が並び始めている。

….内閣府の分析で削減が頭打ちの先進国は日本だけ。政府は新エネルギーの普及など抜本的な対策を迫られる。

—(以上、引用)—–

マスコミでは、よく「米国や中国の排出量と比較して日本の省エネが進んでいる」という論調が見受けられます。

しかし、日本がここ20年間なかなか進捗しない間に、ドイツ等のヨーロッパ諸国は急速にキャッチアップしているのですね。

一方で、1月13日の日本経済新聞「中外時評 世界に通じぬご都合主義―内向き環境大国は影薄く」では、さらに踏み込んだ指摘を行っています。

—(以下、引用)—

地球温暖化防止の国際交渉は、ことし胸突き八丁にさしかかる。….この分野で日本の存在感が限りなく希薄なのも確かだ。

日本経団連は政府による枠の設定を拒否し、排出権取引にも反対し、自主行動計画を主張する。しかし、業界団体ごとに基準のはっきりしない目標がつくられていく様は、政府による枠の設定よりずっと不透明で不合理に映る。「日本的な談合ですか」。海外の環境NPOの観察はけっこう鋭い。

京都議定書は米国の離脱を承知の上で、国権の最高機関たる国会が衆参両院で、満場一致で批准承認した。それを行政庁が、欠陥品だの安政以来の不平等条約だのとおとしめ、立ち枯れを望むということは、国の統治にかかわる大問題ともいえる。変わらないための内向きのご都合主義的言い訳は、日本の国際的信用をもおとしめている。

—(以上、引用)—–

日本の中小企業が持つ環境技術には、環境ビジネスに力を入れる米GEが「宝の山だ」と言う程ですし、日本の自動車メーカーも燃料電池自動車を開発する等、技術競争を先導しています。

産業部門の最大の排出源である製鉄所でも、2030年を実用化目標として、CO2のかわりに水を排出する水素還元という画期的な製法を開発中です。

どうも、それぞれ企業が頑張って開発している要素技術は素晴らしい一方で、英国が1997年にアイディアを練った環境税や排出権取引の仕組みを考え出したり、国や世界全体でレベルで全体最適化するような大きな構想を作るのは、うまくいっていないようです。

1997年の京都議定書で、日本は「2000年には温室効果ガスの排出量を1990年と同レベルに抑え、さらに2008年から2012年の間に1990年から6%削減する」と公約しましたが、達成は危ぶまれています。

それどころか、記事にもあるように、最近になって「そもそも1990年時点で日本は世界で最先端の省エネを達成していたので、この約束自体フェアでない」という意見も出始めている状況です。

一旦、国として合意済のことを、今になって「あれはおかしい」と言うこと自体、何か変な動きになっているように思えてなりません。

 

慢心は失敗の大きな原因になります。

まずは厳しい現実を素直に受け入れ、リアルな状況を客観的に観察できないと、感情論や空気で非論理的にモノゴトが決められるようになります。

これは過去、日本が破綻したパターンでもあります。

 

現在、日本が環境技術でトップ・グループにいることは間違いないことだと思います。

しかし総合力で考えると、必ずしもダントツな省エネ大国ではなく、各国もそれぞれ真剣に取り組んでおり、既に並ばれているのだ、ということを、まずは我々国民全体が認識する必要があるのではないでしょうか?

日本のグローバル化は、二つのグループに分けて考えると分かり易い

新年から日本経済新聞で連載されている「YEN漂流」は、グローバル化が進む世界の中における新しい日本のあり方を考える上で、色々な示唆を与えてくれます。

昨日(1/15)の記事「YEN漂流 私はこう見る 日は簡単に沈まない」では、三菱東京UFJ銀行・畔柳信雄頭取のインタビューが掲載されています。

日本を代表する金融機関のトップが、グローバル社会での日本の対応をどのように考えているかを理解する上で、非常に参考になりました。

—(以下、引用)—

・グローバル化のなかで日本のモノ作りが存在感を高め、不良債権問題から脱し日本経済が復活した。….円の強弱で一喜一憂するのではなく国際社会での日本の役割を考える必要がある

・グローバル化は国際的な専門化につながる。ロシアは資源が豊富だが、お金を使うときには車を日本から輸入し衣料は中国から輸入する。日本は資源もなく内需は細っていく。そういう構造を企業が理解し、商社や金融が手伝いながらやっている

・日本が考えないといけないのは、もはやグローバル化は元に戻らないということ。そこでどうやるのが日本の潜在能力を一番生かし、日本人の幸福につながるだろうか。我々はそこでベストを尽くしたい

—(以下、引用)—

金融業のみに留まらず、世界全体の視点で日本の役割を定義し、その中でそれぞれの業界の行うべきことを洞察し、その中での金融業の役割を議論しておられるのは、素晴らしい見識だと思います。

実際、三菱東京UFJ銀行も、海外の証券会社を買収したり銀行に投資したりしていますが、これもこのビジョンを実現するためものです。

 

『グローバル化が進むことで、「専門化」という国境を越えた国際分業が進う』という指摘は、私も実際に勤務先(日本IBM)の中で実感しています。

例えば、私が日本IBMに入社した1980年代。営業業務(セールスが受注した案件の契約管理、受注入力業務、等)を行う課が全国の各営業所にありました。

数年前。日本IBMの全ての営業業務は沖縄にあるフルフィルメント・センターで一括して行う体制になりました。これにより、営業所からは営業業務の仕事は消えました。

そして現在、営業業務は中国・大連に移管され、日本からは営業業務を行う部署はなくなりました。

米国を含むIBM全社の購買統括部門も、IBM全体の中で一番活発に購買を行っている中国に移管されました。本社の担当役員も中国にいます。

IBMのアジア地域の人事関連業務は、マニラに移管されています。人事異動や退職等の業務は、メールや電話でマニラにいるIBM社員とやり取りして行っています。(人事部門自体は、日本IBMに残っています)

このように様々な業務が、地域特性を考慮して国境を越えて「専門化」していっています。

 

畔柳頭取がおっしゃるように、確かに日本の企業を、

・世界における日本独自の強みを活かすグループと、
・世界における日本独自の強みを活かせるように支援するグループ

といったように、大きく二つに分けて考えると、分かり易いように思います。

自分達はどの立ち位置なのか、改めて確認することは意味があることなのではないでしょうか?

 

参考までに、IBMでは『グローバリー・インテグレイティッド・エンタープライズ』(Globally Integrated Enterprise: GIE)という経営モデルを全世界で展開しており、IBMの重要な戦略の一つになっています。

これは、国の枠組みを越えて世界ベースで人やモノを最適配置してビジネスの最大化を目指す、という考え方です。

さらに、ここで得られた経験や知見を、今後グローバル化を目指すお客様の経営変革に役立てていただけるようにご支援していきます。

その意味では、IBM全体で見る場合は前者、日本IBMなど各地域の会社の場合は後者の立場である、と言えるかもしれません。

世界各地で猛烈な勢いで加速する、グローバル化の流れ

昨日のエントリーはグローバル化と個人生活のことを書きましたが、今日は企業のことです。

1月9日の日本経済新聞の記事「YEN漂流私はこう見る コマツ社長野路国夫氏――もう円には頼まない」で、野路社長がコマツの対応についてお話しされています。

—-(以下、引用)—

・欧州向け投資家向け広報で、『株価が四年で六倍になった』と説明したところ、『ユーロ建てでは三倍だ』と切り返された。日本株で運用する海外投資家は『円』で見ていない

・欧州の競合他社は、東欧や中東、ロシアの成長をテコに業績を伸ばしている。コマツも需要が膨らむロシアに新工場を建てる

・アジアに先行投資をしたきっかけは超円高への対応だった。しかし今は違う

・グローバルな生産体制で、需要の変動に対して各地域の工場間でダイナミックに生産量を調整する。この体制構築に8年かかった。

・部品もグローバルに調達。例えば、英国工場ではアジアからユーロ建てで部品を調達するので、ユーロ高が進むほど原価が下がる

・成長著しい市場では、現地統括会社に資金を集め、再投資した方が資金効率が高い

—-(以上、引用)—

グローバル化で先行しているコマツは、まさにグローバルでの全体最適を図ろうとしています。

 

猛烈な勢いで加速するグローバル化の流れの中で、ユーロが一つのカギになるのではないかと思っています。

大前研一さんはコラム「コソボに見る21世紀の国家の形」の中で、コソボ問題を例に、何故ユーゴスラビアがいくつもの国に分裂・独立し、かつそれぞれの独立国が成功しているかについて述べていますが、ここでもユーロが一つのカギになっています。

—-(以下、引用)—

….、昔のように一定の大きさでないと国が経営できないという観念、そして最大公約数を取ることに伴うさまざまな(人種的、宗教的、政治的)妥協などするくらいだったら、まとまりのいい小単位で独立し、経済政策を充実させて外資を呼び込み、その勢いでEUに加盟しようというゴール(着地点)が見えるのである。これが一種の安堵感となり、いまこうした小国が煩わしい歴史的絆を断って独立、という選択肢につながっているのである。

新しいEU加盟国であるブルガリアやルーマニアを見ていても世界中からカネが流れ込み、いまでは不動産を筆頭に相当なバブル経済となっている。…..ブルガリアはこの1月1日から所得税を10%のフラットタックスにしてしまった。….フラットタックスにすると地下経済が地上に出てくるし、金持ちには多くの可処分所得が残り消費・景気が盛り上がる。

そのほかブルガリアは低所得税にすることによって富裕層が引っ越してくることを狙っている。…所得税が10%なら居住地を移そうという人が出てきてもおかしくない。EUという巨大経済圏の中にあっては、小国には小国の知恵と機敏さが有効だ、ということを皆学んでしまったのだ。

—-(以上、引用)—

旧ユーゴスラビアや東欧諸国というと、私達は「あの紛争の絶えない地域」とか「貧しい国」と思い勝ちですが、実はEU加盟とユーロをテコにして、知恵を絞ってしたたかに成長しているのですね。

 

また最近は、BRICSや東欧・アジア諸国の次の成長市場として、アフリカも注目されています。

 

グローバル化というと、日本では対米・対中のことが議論の中心になり勝ちですが、世界全体で見ると、世界中の色々な地域で私達が日本にいると想像もしないことがリアルタイムに進行しています。

しかも、このような動きを日本のマスコミはあまり流しません。

ただ、これは私達のニーズの裏返しなのでしょう。そのような動きをマスコミで流しても、現時点では世の中であまり必要とされていない情報である、ということなのかもしれません。

マスコミに頼ることなく、私達は、様々なメディアで常にこのような世界の動きを把握して理解し、自分にとっての意味を考え続けていく必要があると思います。

グローバル化と為替リスク:個人の場合

私は大学を卒業した1984年3月に、友人達とヨーロッパ旅行をしました。

この当時、1ドルは250円位しました。

今から考えると、円はとんでもなく安かったのですね。

1ポンドは確か280円位だったように記憶しています。(ネットで調べてみても確認できませんでしたので、間違っているかもしれませんが)

社会人の仲間入りのこの年、ロンドンのバーバリー本店で、なけなしのお金をはたいて、トレンチコートを購入しましたが、非常に高かったことをよく憶えています。でも、日本で買うよりもずっと安かったので、バーバリ本店には日本人が結構いました。

その後、プラザ合意が1985年9月。

円は強くなり、1987年には1ドルは120円台になり、1995年にはさらに1ドル80円まで進み、1ポンドも130円程度になりました。

欧米の商品は非常に安くなり、海外旅行ブームが起きました。

かく言う私も、国内旅行よりも海外旅行の方が安いので、よく海外に出かけては写真を撮っていました。

1月8日の日本経済新聞の記事「YEN漂流 「老後は海外」夢かすむ――北畑次官の誤算」という記事で、経済産業省の北畑事務次官の話が出ています。

北畑さんは、1986年に退職後に物価の安いスペインなどで優雅な老後を過ごすよう勧めた「シルバーコロンビア計画」を発案された方です。

22年前の1986年には、

—(以下、引用)—

「二千万円の退職金と月額二十万円の年金があれば夫婦で退職後の人生を海外でのんびり暮らせる」

スペインの一戸建て住宅(200平方メートル)は700-1000万円、生活費が一カ月に10万-15万円ですむと試算した。

—(以上、引用)—

という状況でした。

その後、2002年にユーロ流通が始まりました。スペインの物価はじりじり上昇、ユーロも強くなり、今や、

—(以下、引用)—

「外食すれば軽く40ユーロ(6400円)。ゴルフ代も上がる一方。年金の範囲内で暮らす計画はユーロ高で崩れた」

今も現地に残る夫婦の一カ月の生活費は1760ユーロ(28万円強)。シルバーコロンビア計画で想定した額の倍以上だ。「優雅な生活」からはほど遠くなってきた。

—(以上、引用)—

という状況になってしまいました。

オーストラリアやタイに移住した人達も、同様に苦労をされているようです。

以前、「南国で暮らす」で書きましたように、日本では海外移住がちょっとしたブームです。

言うまでもなく、これは円が現地通過と比べて圧倒的に強いことが前提です。

しかし、今年から始まった日本経済新聞の特集「YEN漂流」でも連載されているように、この流れは大きく変わりつつあるように思います。

個人レベルで考えると、短期レンジで旅行を考えたり、ショッピングする場合の為替リスクの管理は、単に買うのを控えたり旅行計画を見直せばよいので、それほど難しくはないと思います。

しかし海外移住は、10-20年間という長期レンジで考えるべきものですし、そもそも日本の年金は円で出ます。この長期間の為替レートの変動は、数倍とか、通貨によっては10倍にもなる可能性もあり得ます。個人にとっては非常に大きなリスクです。

ビジネスの世界ではグローバル化はどんどん進み、企業は様々な手段で為替リスクを相殺しようとします。

翻って、個人レベルで長期間の為替リスクをいかにマネージするか、….これは今後、より大きな問題になってくるのではないでしょうか?

音楽CDを作ってみて考えた、フラット化する世界

今年の9月1日、浜離宮朝日ホールで合唱団の演奏会を行ったのですが、この演奏会のCDが完成しました。

マスターCDは、浜離宮朝日ホールでの録音を元に私のPCで作成しました。簡単な作業でしたが、これでも市販の音楽CDと品質の違いが分からないレベルのものが出来ました。

CD本体は、印刷会社の方にお願いして、イラストレータで版下を作成いただき、JASRACの利用許諾も取得し、インレイや8ページの冊子・帯も作成し、CDレーベルも印刷し、キャラメル包装を行いました。

この結果、いわゆる手作りのCDとは全く違うレベルの仕上がりになりました。価格が付いていない以外は市販音楽CDと同等の品質です。下記に画像があります。

CD表の写真

CD裏の写真

このような本格的なものですが、費用は驚くほど安く出来ました。

全費用をこの写真に出ている数十人の団員で均等負担して、一枚当り2,000円程度の料金、と言えば、お分かりになるのではないでしょうか? 通常、国内で作るよりも1/3程度のコストです。

ポイントは、版下等のデザインを全て日本で行い、実際の印刷やCDプレスは台湾の業者に委託し、日本の印刷会社の方に全体のコントロールをお願いしたことです。データや版下・ゲラ等は全てネットでやり取りしました。

恐らく、10年前だったら、この程度のコストで本格的な音楽CDはとても作ることは出来なかったのではないでしょうか?

個人でも、フラット化した世界を享受できる時代であることを実感した次第です。

一方、今まで国内業者間での競争だった印刷業界も、競争のフィールドがグローバルにフラット化してきた、ということでもあります。(IT業界でも同様ですが)

この業界でビジネスをなさっている立場からすると大変な時代ですが、一方で、例えば今までCDをこのように作るを考えもしなかった私のような人達もお客になる訳で、見方を変えれば、考え方次第で面白い時代になってきたと言えるのではないでしょうか。

今年、グローバル化が進展した業界と企業

12月28日の日刊工業新聞で「広報部長が選ぶ2007わが社の三大ニュース」という記事が掲載されています。

主要企業において、社外にメッセージを発信する責任者である広報部長が、自社の三大ニュースを選ぶ、という企画です。

企業にとって、数多いニュースの中から3つに絞って選ぶのも大変ですが、見方を変えれば、それぞれの企業が、今年一年間何を行ってきて、どの達成指標を重視しているかを理解する目安でもあります。

ということで、この3大ニュースの中から「グローバル化」に関するものだけを拾ってみました。但し、「世界初」「世界最大・最小」等の項目は、本質は製品やサービスに関するものなので、除外しました。

このエントリーの最後にリストを掲載しますが、改めて眺めると、既にグローバル化が進展していて国際的にも競争力がある自動車業界以外でも、様々な業界がグローバル化が進展していることが分かります。

特に目立つのは、海外に自社で工場建設等の投資をする傾向が強い自動車業界に対して、それ以外の業界ではグローバルな提携・協業が多い点です。

一方で、この記事でニュースを寄せた企業のうち、グローバル化に関するニュースを3項目中を最低1つでも挙げた企業は全体37社中14社で、4割以下でした。

日本企業の本格的なグローバル展開はまだまだこれから、ということなのかもしれません。

以下、記事から掲載順にグローバル化関連を引用します。

■日立製作所
・鉄道発祥の国、英国に笠戸事業所で製作したCTRL向けA-trainアルミ車両が上陸

■東芝
・カザフスタンでの提携やウラン鉱山プロジェクトなど原子力事業強化に布石

■富士通
・海外で企業の合併・買収(M&A)加速

■日本IBM
・創立70周年を機に国単位での地域統括会社に移行
・グローバル拠点を活用したサービス事業が拡大

■三井住友銀行
・国内外で拡大を図った提携戦略(セントラル・ファイナンス、OMCカード、韓国国民銀行、ベトナム輸出入銀行など)

■日本ガイシ
・メキシコにセラミックス事業の新生産拠点の設立を決定

■キリンホールディングス
・豪州ナンバー1の乳製品・果汁飲料会社ナショナル・フーズの全株式取得

■ライオン
・米ブリストル・マイヤーズスクイプ社からの解熱鎮痛剤「バファリン」の日本・アジア・オセアニア地域での商標権を獲得
・環境対応の界面活性剤を世界に拡販すべく製造販売子会社をマレーシアに設立

■JTB
・北京に中国事業統括会社を設立
・北欧の大手旅行会社「ツムラーレ・コーポレーション」を買収

■トヨタ自動車
・中国・天津第三工場、ロシア工場など海外工場が稼動

■日産自動車
・インド、モロッコなど新興市場での事業拡大を発表

■三菱重工
・US-APWR(改良型加圧水型軽水炉)原子力発電設備2基、米国テキサス電力が採用決定

■コマツ
・茨城、金沢、インドの国内外工場が稼動、ロシア工場建設を決定

■森ビル
・中国・上海市の地上101階建て超高層複合ビルプロジェクト「上海環球金融中心」が上棟

 

以上です。

フラット化する北朝鮮(2):NYフィルが平壌で初公演

大変遅ればせながら、村上龍「半島を出よ」を読んでいます。

2005年3月発売ですから、もう2年半前に出た本です。

ご存知の方も多いと思いますが、2010年、日本が経済的に破綻し、消費税率は17.5%に達し、経済的地位は下落、日米・日中関係は悪化して日本が国際社会で孤立し、北朝鮮と米国が急接近する中で、北朝鮮の特殊部隊が福岡に上陸し制圧する、という話です。

当時、日本の経済破綻は別としても、世界から完全に孤立していた北朝鮮と米国が接近することはないのではないか、というのが、多くの人達の認識でした。

しかし先月、「フラット化する北朝鮮」で書いたように、今や北朝鮮が世界経済の中に組み込まれようとしています。

さらに今週、「NYフィル、2008年2月に北朝鮮・ピョンヤンで初公演を行うことを正式発表」というニュースもありました。

平壌で北朝鮮の敵国であるアメリカ国歌も演奏され、北朝鮮国内で放送されるとのこと。

我々が好むと好まざるとに関わらず、グローバル社会では、フラット化が世界すみずみにまで急速に進展していることを実感します。

フラット化する北朝鮮

この半年で6カ国協議が急速に進展しています。

これに関して、期せずして大前研一さんと田原総一郎さんがほぼ同時期にコラムを書かれています。

11月14日 「“拉致問題は解決済み”という現実」 (大前研一)

このコラムでは、大前さんは6カ国協議に参加している国のうち、日本を除く国は朝鮮半島の非核化に交渉のポイントを移してしまっているのに対して、拉致問題の解決が大前提としている日本は、それよりもはるかに大きな被害をもたらしかねない核ミサイルの脅威の議論に参加できていない現実を書かれています。

センシティブなテーマに、ご自身のロジックで単刀直入に切り込んでいく大前さんのコラムに対して、コメント欄はまさに賛否両論の嵐です。

 

11月15日 「北朝鮮問題で改めて問う日本の国益と拉致と核」 (田原総一郎)

このコラムでは、田原さんは冒頭で北朝鮮に取材に行った3年前と最近の比較をされています。3年前に北京から平壌に飛んだ際は非常に小さく貧弱な飛行機で乗客も東洋人ばかりだったのに対して、今回は大型機で満員、乗客はEUやアメリカ等からのビジネスマンが乗っており、世界は北朝鮮をビジネスチャンスの場ととらえて積極的に動いているとのこと。

北朝鮮に豊富に眠っているレアメタルと安い労働力をビジネスチャンスと捉えているようです。

拉致家族問題についても、北朝鮮当局者とのインタビュー結果も掲載されており、要注目です。

 

拉致被害者のご関係者のお立場は、察して余りあるものがあります。

しかし、一連の動きを見ていると、あの世界から孤立していた北朝鮮も、わずか半年の間に、急速にフラット化する世界の仲間入りをしつつあるのが、世界の中の現実のように思います。

一方の日本。

以前のエントリー「日本軍から学ぶ 『情報は客観的に見るべきであり、主観的に見てはいけない』」で、ある軍人が書いた下記の文章をご紹介しました。

主観は『夢』であり『我』である。これは己個人に関する限り自由であるが、我観及び主観を国家の問題に及ぼすにおいては、危険これより甚だしきはあるまい

我々は、主観と客観を分けて、どのように対応すべきか、考えるべき時期なのではないでしょうか?

「日本大好き」の中国の人達

NBonlineに「日本にハマってしまった「哈日(ハールー)族」たち」という記事が掲載されています。

「哈日族」って、あの台湾の….と思って読み進めていたら、中国本土にも哈日族がいるのですね。

「カワイイ!」と同じ発音の中国語もあったり、浜崎あゆみを「東洋妖姫」と呼び「浜崎共和国」というファンクラブもあったり、中には自分の前世は日本人だったと言う人もいるそうです。

ちょうど、日本の韓流ドラマが流行ったのと同じ現象のような気がします。

当然、中国ではこのような動きを好ましく思っていない人達もいるのですが、それに対する中国の若い女性の書き込みが、紹介されています。

—(以下、引用)—

「私は自分の好きなものを選んだだけ。それが結果として日本製だったからと言って、私を漢奸(売国奴)と呼ばないで。食べ物だって、自分の好きなものを選んで食べるでしょ。それと同じよ。もしあなたが四川省の人で、それでも辛いものが嫌いだから麻婆豆腐を食べずに淡白な味の豆腐を日本流に食べたとしたら、それでも売国奴呼ばわりされるのかしら。何で好きなものを好きと言うのに、愛国かどうかを言わなきゃならないの?」

—(以下、引用)—

『日本そのものが好き』ということではなく、『たまたま「美しい」「カワイイ」と思ったものが日本のモノだった』ということですね。

この女性のメッセージは、イデオロギーで管理できる時代は完全に過ぎ去り、全世界でのフラット化が個人レベルで起こる、という、グローバル化の本質を突いているように思います。

「個人がグローバル化する」という今まで人類が経験したことがない世界に我々は足を踏み入れていることを改めて実感します。

実際、ほんの1-2年前には考えられなかったことが起こっています。

例えば、「米国の大学の授業を、日本の自宅にいながら無償で簡単に見ることが出来る」ことを、2年前に想像できたでしょうか? (詳しくはこちら)

これからどのようなことが起こるのか、とてもエキサイティングですね。

洗練された日本市場とどう取り組むか?

昨日(10/20)の日本経済新聞「回転いす」に、中国ハイアールCEOの張瑞敏氏の談話が掲載されています。

—(以下、引用)—-

自社の家電製品を日本で販売していた三洋電機との合弁を三月末に解散。「日本の消費者の視線は本当に厳しい」…

「日本人の好みに合った設計は海外メーカーにはまねできない」と振り返る。

—(以上、引用)—-

あのハイアールのCEOにしてこのように語らせる日本市場は、やはり世界で一番洗練されているのでしょう。

しかし、日本国内で徹底的に鍛えられた商品やサービスでグローバル市場に挑戦して大成功を収めているケースも多い一方で、日本の特殊市場向けに最適化してしまいグローバル市場で苦戦しているケースもあります。

・厳しい市場で鍛えられた力を、グローバルに活かしていくのか?
・あるいは、過剰品質の罠に陥ってしまうのか?

これは、日本メーカーがグローバルに出て行く課題であると同時に、私達外資系企業に勤務する者の課題でもあります。

実はまだ終わっていなかった朝鮮戦争

昨日(2007/10/4)の日本経済新聞夕刊のトップに、「朝鮮戦争終結へ首脳会談」という記事が掲載されました。

そう、実は1950年に勃発した朝鮮戦争はまだ終わっていないのですよね。1953年にいわゆる38度線で停戦したままです。

1980年代に初めて韓国に出張した際、会議中に防空訓練のサイレンが鳴ったことを今でもよく憶えています。韓国では徴兵制度があるため、知り合いの韓国IBM社員の多くは兵役経験もあります。

実は、準戦闘下にあるのですよね。

日本と北朝鮮間ではまだ拉致問題等が未解決ですが、今回、朝鮮戦争が終結ということになると、今後のアジア情勢は大きく変わってきますし、グローバルに見ても影響は非常に大きいものがあります。今後の動きに注目していきたいですね。

割と静かだった、2001/9/11直後の米国

あの2001年9月11日、私は米国に滞在していました。

「さぞ大騒ぎだったのでは?」と思われるかもしれませんが、実は9.11が起こったことを知ったのは、9月13日頃でした。

この旅行では、遅い夏休みを取って米国南西部を回りました。9月6日にサンフランシスコに到着、9月20日にラスベガスから帰国、というスケジュールだけを決めて、後はレンタカーでその日のホテルやモーテルを探して泊まっていく、というものでした。

旅行中、毎日パソコンを繋げてメールをチェックしていました。しかし、9月10日から泊まったヨセミテのホテルは19世紀に建てられたもので、部屋にはテレビも電話も新聞も、当然ネットもない状態でしたので、メールは繋げられませんでした。

まぁ、しばらくネットに繋げない生活もいいかな、と思い、ヨセミテの大自然を満喫しながら数日を過ごしました。

ヨセミテがとても気に入ったので、さらに数日滞在を伸ばすことにし、別のホテルを予約しに行きました。

無事、お目当てのホテルのレセプションで予約を終えて、ロビーでくつろぎながら何気なくCNNの放送を見ていたら、あのビルの崩壊の様子を何回も流しています。

「最近は、CNNも特撮映画を紹介するようになったのだな」と思ったのが第一印象。

しかし何回も繰り返し流していますし、キャスターからも緊迫感が伝わって来るので、どうも大きな事件が起こっているらしいことが分かりました。しかし、なぜビルが崩壊しているのかが分かりませんでした。

実は9月13日頃には、旅客機がビルに衝突する映像があまりにもショッキングだということで、米国では放映を自粛していたようです。当時、米国の子供達が、この映像でかなり精神的なショックを受けたことも理由です。

大変なことがニューヨークで起こっていることは分かりましたが、ヨセミテにいる人々ののんびりした様子からは、全く現実感が感じられません。滞在先のホテルに向かう頃には、この映像の様子を忘れてしまいました。

ホテルに戻ると、誰も私達の行き先を知らない筈なのに、何故か「すぐに家か会社に電話すること」というメッセージが入っていました。

「日本の親戚に不幸があったのではないか?」

と思って急いで電話すると、「大丈夫か!」との声。

実は日本では、9月9日までメールで連絡が取れていた私が、9月11日以降の2日間全く返事がなかったので、「もしかしたらテロに巻き込まれたのではないか?」と大騒ぎをしていました。

日本では、ビルに飛行機が衝突する様子が何回も放映され、あたかも全米が戒厳令のような状況になっていると放映されていたことは、帰国して分かりました。

普段はインターネットは全く使わない上司が、ヨセミテに行くと言っていた私の話を思い出し、ヨセミテのホテルを検索して片っ端から電話して、「ナガイという人間は泊まっていないか?」と確認していたそうです。

この時はその日本の様子は全く分からず、何でそんなに大騒ぎをしているのだろう、と思いました。

翌日から町の様子を注意してみてみると、確かに色々な変化が見てとれました。

・国旗が半旗になっていました。確かに9月12日頃から半旗が目立っていましたが、「国旗掲揚の途中で何らかのトラブルで上まで上がらなかったのだろう。それにしても多いな」と思っていました

・9月14日頃から町を走る車に国旗が飾られるようになりました。実際にこの時期、ウォルマートでは米国国旗が普段の数十倍売れたそうです

・CNNでは、市民や学生が集まった討論番組で、「今後、米国はどう対応すべきか」という議論を行っていました。皆、個人の立場で様々な意見を出し合っていました。自己責任に基づく民主主義が根付いている米国の強みを感じるとともに、米国で何らかの合意形成がされつつあることも肌で感じました

・ラスベガスの電光掲示板で"Good Bless America"というメッセージが繰り返し流れていました。アングロサクソンを中心とした愛国主義の台頭を肌で感じました

9月19日、ラスベガスで米国IBMに勤務している米国人の同僚夫婦と食事をしました。この時も、9.11の話題はあまり出ず、仕事やプライベートの話に終始しました。

このように、9.11直後の1週間、少なくとも西海岸のカルフォルニア州やネバタ州は意外に静かで、9.11は人々の実際の行動に目立った影響は与えていないように思いました。

しかし、逆に、人々の心の奥底で様々なことが起こり、群集の潜在意識の中に大きな変化を与えたのが、この時期なのではないでしょうか?

もうすぐあの9.11から丸6年。世の中は大きく変わりました。その種は、私が米国にたまたま滞在していたこの1週間の間に、米国社会の中に生まれていたように思います。

【内容修正】 懐かしい日本の原風景と、赤とんぼ

**** 8/7のエントリーですが、一部に不適切な部分がありましたので、一旦削除の上、再掲しています。詳しくはこちらをご覧下さい ****

今朝の通勤電車で見た車内広告です。

昭和30年代初期の頃を描いたと思われる素朴な絵で、店にある白黒の街頭テレビに、浴衣姿の子供達が集まってテレビを熱心に見ています。

絵に重なって、次のメッセージが書かれています。

「気がつけば、大きなテレビをひとりで見る国になっていた」

これは、介護付高齢者住宅 ヒルデモアの電車内広告です。

ヒルデモアの広告は、古きよき日本を描いた素朴で懐かしい絵と、その頃を現代の視点で思い出すメッセージが重なっていて、いつもジーンときます。

マーケティング的に言うと、ターゲットセグメントとして、恐らく高齢者住宅への入居を考えている50代後半から60代を対象としているのでしょうね。

ちなみに、私はまだ40代で高齢者住宅を検討すること自体まだまだ当分先ですが、この広告シリーズはいつも気になっています。ううむ、ターゲットに引っ掛かってしまっているのですね。

20代や30代前半の方がこの広告を見てどう思うか、興味あるところではあります。

ところで、この広告を見て、童謡の「赤とんぼ」を思い出しました。

山田耕筰作曲 三木露風作詞「赤とんぼ」の歌詞、恐らく日本人の誰でも知っていると思いますが、我々の年代でその歌詞の意味をご存知の方はどれだけいらっしゃるでしょうか?

 

(2007/8/10修正:まだ著作権が有効であるため、歌詞を削除しました)

 

素晴らしい詩なので、敢えて説明も不要かもしれませんが、少しだけ解説です。

 

1.「おわれて」は「追われて」ではなく、「背負われて」という意味。「自分が赤ちゃんの頃、家族に背負われて赤とんぼを見たのはいつだったか?」という意味ですね。

2.これも子供の頃の思い出。「桑の実を小籠に摘んだ古い記憶があるが、あれは現実だったのだろうか」という回想です。

3.「姐や」とは、子守娘のことだそうです。色々な解釈があるようですが、こちらの中に紹介されている解釈の一つである「と」解釈を読むと、非常に貧しかった当時の日本の現実に愕然とします。

4.このような思いを込めて改めて赤とんぼを見てみると、色々なことを感じますね。

 

ところで、私の知り合いが介護施設で高齢者向けリトミックを行った時のこと。「あかとんぼ」の合唱を始めた途端に、それまで積極的に参加しなかった何名かが、涙をポロポロ流しながら一緒に合唱したそうです。

大正時代後半に作られたこの歌詞の意味を考えると、懐かしく悲しい思い出が湧き上がってくるということでしょうか?

数字ではっきり分かる、日本のグローバル化

世界ではグローバル化が急速に進展していますが、日本のグローバル化も、統計データからはっきりと見ることができます。

■■例えば、2006年のWTOの資料によると、下記のように、日本の輸出入は1993年から2005年の12年間で2倍に伸びています。特にアジアや中国で顕著です。

■日本の輸出:
・世界全体に対して、1993年は3622億ドル⇒2005年には5949億ドル
・特に中国に対して、1993年は172億ドル⇒2005年には984億ドル
・中国以外のアジアは、1993年は1281億ドル⇒2005年には2052億ドル

■日本の輸入:
・世界全体に対して、1993年は2416億ドル⇒2005年には5149億ドル
・特に中国に対して、1993年は204億ドル⇒2005年には1084億ドル
・中国以外のアジアは、1993年は769億ドル⇒2005年には1480億ドル

■■財務省の資料では、日本による海外投資も拡大中であることが分かります。

・世界全体に対して、2000年は2兆5040億円⇒2005年は4兆7400億円
・特に急拡大しているのは、アジアと中南米。
・アジアに対して、2000年は1280億円(全体の5%)⇒2005年は1兆6170億円(全体の34%)
・中南米に対して、2000年は1190億円(全体の5%)⇒2005年は5570億円(全体の12%)
・これに対して、西ヨーロッパと米国への投資は変化なし。

1980年代、日本を含む多くの企業は、国内市場が飽和したのに伴って海外市場算入を目指し、国際企業として輸出を拡大しました。

これが貿易摩擦による保護主義政策を生んだため、1980年代後半から、海外現地法人を設置して現地調達・現地生産をはじめました。国際企業が多国籍企業へと進化したのがこの段階です。

現代、グローバル競争はさらに激化しています。中国やインド、中南米等の新興企業も大きく発展し、インターネット普及等の後押しもあって、世界もフラット化しています。

ご参考までに、"The World Is Flat" (邦題「フラット化する世界」)では世界がフラット化している10の要因を挙げています。

詳しくは、こちらと、こちらを参照ください。

上記の数字は、これらの動きをお金の面で裏付けるものでもあります。

昨年末に書いた『「多国籍企業」と「グローバル企業」、どう違うか?』のように、今後、企業の多くは多国籍企業からグローバル統合を行っているグローバル企業に進化していきます。

これにともない、我々の生活も、ビジネス・プライベートの両面で、大きく変わっていきます。

激動の世の中ですが、こんなに個人レベルで様々な可能性が拡がりエキサイティングな時代は、今までなかったのではないでしょうか?

そう言えば、20年前に日本IBMの社長をなさっていた椎名武雄さんは最近の講演で、「今、僕が社長をやっていた時代をもう一回やるか、または今の時代でやり直すか、どちらを選ぶかといわれたら、僕は間違いなく今の時代を選ぶね!」とおっしゃっていました。

このようなワクワクする時代に出会えたことに、私は感謝しています。

「個人の時代」に求められること

日経ビジネスオンラインに連載されていた宋文州さんの「傍目八目」は、今週の「最終回の言葉」で最終回になってしまいました。

中国と日本の双方の文化を深く理解され洞察に富んだ指摘は、とても得るところが多く、いつも拝読していました。

今回興味深かったのは、「現代になって、初めて日本と中国が対等な視線で相手を見るようになった」という指摘です。

確かにこれまでは、中国が圧倒的な力を持って周辺諸国に接していたり、近代になって日本が大東亜共栄圏構想でアジアをまとめようとしたりして、対等な関係にはありませんでした。

現代になって対等な関係で相手を見ることができつつあるのは、世界のフラット化によって、個人レベルで相手の国の人達がどのような人達なのかが見えるようになったことが大きいのではないかと思います。

このような時代、個人は果たすことが出来る役割は、ますます大きくなっているのではないでしょうか?

「個人の時代とは、個人としての誇りと純粋さが必要な時代です。」

と宋さんは書かれておられますが、これは肝に銘じたい言葉ですね。

何はともあれ、お疲れ様でした。

「また会いたい」と思わせる、海外とのビジネス・コミュニケーション

本日(6/19)の日経産業新聞の記事『海外での商談信頼から、心をつかむ振る舞いや話題――「また会いたい」と思わせる』では、欧米以外の地域に赴任する際に必要な振る舞いや話題・知識を紹介しており、大変参考になります。

—(以下、引用:一部省略)—

中国編:訪問先の町の歴史や、そこから登場した歴史上の人物や政府幹部など現代の大物を理解しエピソードを披露すると、相手のこちらを見る目が変わり、親交も深まる。

シンガポール編:日本と同様に国土や資源に恵まれない環境下で経済発展を目指しており、日本企業の活動への興味が強い。また、日本のポップカルチャー関連のネタも盛り上がる。また、最低限、第二次世界大前後の歴史は知っておくべき

中南米編:なぜ日本が敗戦後に急成長して経済大国になれたのかという点への関心が高い。日本の近現代史に詳しい人は取引先からも割と早く信頼される。また、ブラジルでは日本以上に上司と部下のけじめが厳しいので注意。ただし、ブラジルとアルゼンチンはライバル関係にあり、話題にする時は慎重を期すべし

中東諸国編:むしろイスラム教圏で積極的に宗教を話題にする。相手の生活や文化への強い関心が伝わる。かつて同地で栄えた古代文明に関する話題も、我々の関心として受け取られる。

—(以上、引用)—

相手の国の興味と、日本という国の理解、特にアジアでは第二次世界大戦の歴史を理解していく、ということですね。

日頃の心がけでなんとかなるのではないでしょうか?

ところで、この記事を読んで思い出したのが、昔の私の上司です。現在、ある会社の社長をなさっています。

この人のコミュニケーション力は、世界レベルで見ても達人レベルなのではないでしょうか?

短い時間で相手からの信頼を得て、win-winの交渉を勝ち取ります。

当然、英語はバツグンに上手ですが、それだけではありません。何よりも凄いのが、話題が豊富さ。半端ではありません。

様々な国の人達に合わせて、現地の話をします。それも、その方の出身地について、そこに行った人でなければ分からないレベルで話します。

初対面の会議の冒頭、10分程度の会話で相手の出身地に関する話題で盛り上がり、相手の心をしっかり掴みます。相手は心を開いた状態で会議を行います。

まさに、相手に「また会いたい」と思わせる、そんな感じです。

夜の宴会等では、これがさらにレベルアップして、「あなたもよく知っているあの町の、あそこの通りにある、あの店の××××パスタはうまい。結構空いているし、是非行ってみるといいですよ」といった感じになります。

これだけ話題が豊富な秘密ですが、実は、この人は休暇になるたびに、世界中を旅行しています。

一度、「既に、世界のほとんどの国を旅行されたのでは?」という質問をしたことがあります。返ってきた答えは、

「いや、それ程じゃないよ。60カ国くらいかな? まだまだ他にも行きたい国があるし」

ツアーコンダクターではなく普通のビジネスマンで、60ヶ国に出かけたことのある人というのは、そうはいないのではないでしょうか? しかも、行ったときのことを非常によく覚えています。

「世界のあらゆる場所に行きたい」という猛烈な好奇心を持っているこの人だからこそ、できることなのかもしれません。

この人を見ていると、「非常に高いレベルのスキルは、もはや個性である」と実感します。

日本IBM誕生の発端は、84年前

6月17日は日本IBMの創立記念日でした。

実は今年で創立70周年になります。

創立当時の日本IBMはどんな企業だったのでしょうか?

1937年6月17日、設立発起人会の会合により、日本IBMの前身である「日本ワットソン統計会計機械株式会社」の設立が決定されました。

しかし、物語はさらに14年前にさかのぼります。

1923年(大正12年)の秋、日本陶器が製造・販売する「ノリタケ・チャイナ」はアメリカ市場で大人気。

受注が殺到し、生産事務が追いつかないのが大問題になっていました。そこで機械化による事務合理化が検討されました。

そこで、日本陶器の製造担当重役が、森村ブラザースという会社を訪問しました。森村ブラザーズは、同じ森村組の系列である日本陶器の陶磁器を米国で販売することが主業務でした。

森村組は日本陶器の製造担当重役をサポートするために2人の社員を指名しました。そのうちの一人が、米国のビジネスショーでCTR社(IBMの前身)の穿孔カード式計算機を見て、その能力に驚き、採用を決めました。

しかしCTR社からは、日本ではサービスを提供できないため迷惑がかかる、という理由で、提供を断られました。

そこで、この人は、自らCTR社のサービス技術習得を申し出て、半年間、米国・エンディコットにあるCTR社の工場で研修を受け、問題を解決。

帰国間近には森村ブラザースとIBM(1924年にCTR社から社名変更)は極東での代理店契約を締結、1925年にIBMの統計機が日本陶器に設置されました。

この人が、日本IBMの事実上の創立者で、社長にもなった、水品浩さんです。

ということで、84年前のお客様の課題が、日本IBM誕生の発端でした。

設立当初より情報産業の真っ只中にいる生粋のIT企業ではありますが、実は意外と社歴は長いのですね。

Pato Fuの”Made In Japan”で、Cool Japanを実感

YouTubeで見つけました。文句なしの面白さですね。最高です。

Pato Fuはブラジルのバンドで、日本語で歌っているボーカルのFernandaは日系3世だそうです。

これはブラジル発のコンテンツですが、YouTubeでは、様々な日本のコンテンツに英語やスペイン語、ポルトガル語等でコメントが付いています。

日本のコンテンツを理解しようとして日本語の勉強を始める人が増えているとのことですが、"Cool Japan"が実感できますね。

戦後間もない頃、大橋巨泉等はアメリカのジャズを理解するために、また小林克也は海外ラジオやFENで流れる洋楽で、それぞれ英語を勉強したそうです。

現在、ネット社会になり、同じことが日本に対して起きているように思います。

合唱団と、グローバライゼーション

日本の国際化は、この10年間で急速に進展しているのではないでしょうか?

例えば相撲界。白鵬の全勝優勝で、もうすぐモンゴル出身の横綱が2人体制になります。今や外国人力士がいなくては相撲は成り立ちませんし、彼らがいるからこそ相撲が面白くなってきているように思います。

ついこの前まで小錦が外国人籍という理由だけで横綱昇格が問題になっていたのがウソのようですね。

自分の仕事をふり返ってみると、我々が日本で作った戦略やプランに対して、文化的な背景が異なる欧米やアジアの人達の視点を取り入れることで、大きく進化することが数多く経験しています。

実際、外資系でなく日本企業でも、海外の方と仕事をする機会が増えた方も、多いのではないでしょうか?

生まれ育った環境が全く異なる人達と交流することで、我々が全く気が付かなかった視点を教えてもらうことができ、人間としてより大きく成長できますし、一緒に作るモノ(仕事や作品)はよりよいものになってきます。

イノベーションを生むためのキーワードに「多様化」や「グローバライゼーション」が入っているのも、このような理由だと思います。

一方で、気になることがあります。

最近、日本社会で「異質に感じるモノ」を排除しようとする動きがより強まっているように思います。

例えば、学校を中心に、最近ますます問題が深刻になっているイジメは、自分達と異なって見える人に対する想像力や理解力の欠如から生まれるのではないでしょうか?

当初は一見、異質に見えても、勇気を出してお互いに理解を深め合うことで、お互いに得るものは非常に大きい筈です。

さて、先週、ウチの合唱団に初めて海外から来た方が入団しました。

韓国から日本に来て1年間。日本語はまだ勉強中ということですが、とても流暢な日本語を話されます。音楽的な感性も、我々が学ぶべき点を多く持っておられるように感じました。

今まで日本人メンバーだけだったウチの合唱団が、大きく成長する機会をいただいたように思います。

多様化・グローバライゼーションを通じた飛躍を、是非ウチの合唱団でも実践したいですね。

20年間で温暖化ガス排出量をゼロにする国

ロイターが伝えるところによると、5/24、コスタリカが、今後20年間で温暖化ガス排出量を差し引きでゼロにする方針を表明したそうです。

火力発電所を全廃する一方で、植林を進め二酸化炭素の排出と吸収を均衡させるとのこと。

国土の四分の一以上を国立公園や生物保護区とし、既に発電の78%を水力、18%を風力や地熱で賄い、ガソリンへの課税強化を財源に、1997年から植林を実施した地主に補助金を支給しているとのこと。

環境が整い、かつ適正な規模の国家だからこそ、真っ先にこのような対応が可能なのでしょうね。

このようなモデルは、日本でも是非参考にしたいものです。

「美しい星50」

地球温暖化がますます注目される中で、昨日(5/24)、安倍晋三首相は第13回国際交流会議の演説で温暖化ガス削減に向けて、「美しい星50」と題した総合戦略を発表しました。

「世界全体の排出量を現状から2050年までに半減する」との長期目標を明示し、「京都議定書」に代わる国際枠組みへの米国や中国、インドなど主要排出国の参加も提唱しました。

これに併せて、直近の話として、「一人一日一キログラム」の排出削減に向けた国民運動も提案されています。

日本の政治家が、世界に向けてこのようなリーダーシップを示すのは、今までに記憶がありません。

この背景にあるのは、日本がダントツの競争力を持つ省エネ技術ですね。

一方で、この発表に併せて非常にタイミングよく書かれた田原総一朗さんの記事『日米が環境サミットで狙う「勢力地図」逆転の秘策』を読むと、環境問題もまたビジネスや政治の大きな駆け引き材料であることが分かります。

世界中で大きな盛り上がりを見せている環境問題で、日本がグローバルの中で大きな貢献をするのは素晴らしいことであると思います。

しかし、田原総一郎さんも指摘されているように、環境問題とは言っても、きれいごとだけではありません。

政治的にしたたかな国の中で日本がリーダーシップを取るためには、政・官・産がお互いにさらに人的交流も含めた連携を強めていく必要がありそうです。

日本の謝罪

これもYouTubeで見つけましたが、欧米人の視点では、日本人はこんな感じで頭を下げているように見えるのでしょうか? うむむ….。

コメントがなかなか秀逸です。

ちなみに、こちらには土下座の方法があります。

グローバル化して欲しい、最近のテレビ

「日本のテレビは大丈夫なのか」という記事を読みましたが、全く同感です。

私も、今ではあまりテレビを見なくなりました。見るとすればニュース位で、他にはNHKのドキュメンタリーモノや、たまにスポーツ番組を見るかも、という感じです。ドラマも全く見なくなりました。

一方で、記事でも述べられている通り、新聞の読み方は以前と全く変わっていないように思います。

では、テレビを見る代わりに、何に時間を使っているかというと、ネットだったり、家族との会話だったりします。

以前は私も1日3時間以上テレビを見ていましたが、最近はニュースを30分見る程度なので、多めに見積もってもテレビ視聴時間は1/5になっています。これって、比較的平均値なのではないでしょうか?

ニュースにしても、何か事件があるとどの番組もほぼ同じ切り口で同じ事件を取り上げて繰り返し放映するので、あまり長時間見ることはありません。

テレビを見なくなったのは、面白い番組がなく、役に立つ新鮮な情報がないためです。その観点で、記事の中の

NHK再生の切り札は、あれだけ多くの波を持っているのだから、一つぐらいは「日本版CNN」としてニュース専門チャンネルにすること以外にないと思われる。

という提案は、非常にいい案だと思います。

世界中のニュースをカバーしていただくと、われわれ日本人全体の視野もグローバルに広がり、フラット化する世界の中でグローバルな考え方をするために大いに役立ちます。

また、公共放送だからこそこのようなことも可能なのではないかと思います。

いかがでしょうか?

言葉の問題こそ、日本人のグローバル化の可能性である

本日(3/8)の日本経済新聞夕刊「グローバル化、ファン・ヒンケルさんに聞く」で、国連大学のハンス・ファン・ヒンケル学長がグローバル化と日本について語っています。

ヒンケルさんは、グローバル化の日本人の課題として、「閉鎖性」と「言葉の問題」を挙げています。

一方で、これが変化しつつあることも指摘しています。

—(以下、引用)—
….言葉の問題は重要ですが、同時に、世界には自分とは違った考え方があるということを理解することも大事です。英語を母国語とする英米人らはそういう点ではフレキシビリティー(柔軟性)に欠けます。英語で苦労している日本人はおのずと他の文化の存在を認識できており、大変幸運な“特権階級”かもしれませんね
—(以上、引用)—

これは実感します。日本人から見ると米国人はみな国際化しているように見えますが、多くの米国人は母国語以外は話しませんし、米国以外の他の文化があることを意識していません。これは決して悪気があったり高飛車な態度であるということではなく、海外から米国に来る人達がみな英語を話すので、本当に知らない、という状態です。

先の大統領選挙で、米国国民がブッシュを再選したのも、こんなところが背景にあります。

ですので、米国はグローバル化しているかもしれませんが、多くの米国人は必ずしもグローバル化しているとは言えないかもしれません。

—(以下、引用)—
….日本人に限らず、私はだれで、どこから来たのか、自分は社会のために何ができるのか、と多くの人が自身に問いかけている。その解はグローバル化で見つけやすくなっているのではないか。情報があり、多くの出会いの中で、誰もが自分の位置を確かめやすくなっているから
—(以上、引用)—

同質化している社会では、なかなか自分の立場が見つけにくいのに対して、多様化した社会では、同質化した社会ではなかなか気が付かなかった自分のアイデンティティが見つけやすくなっているのかもしれませんね。

仕組みはグローバル、好みはローカル

世の中がフラット化していき、グローバルが進展していくと、グローバルとローカルの兼ね合いをどのように付けていくか、という課題が出てきます。

私は外資系の会社に勤務していますので、多くの場合はグローバルの大方針や戦略は本社主導で決められ、それをいかにローカルの現実に合わせて実施するか、ということを考える立場にあります。もちろんグローバルで何も決めていないことも多いので、そのような場合はグローバルの動向との整合性を配慮しつつ、ローカルで戦略を立てます。

一方で、日本企業も、こちらで書きましたように、最近では今まで海外では通用しないと言われていた小売業でもグローバル展開を行っている事例が出てきました。

要求水準が非常に高い日本市場に応えるために作った仕組みは、世界で通用するのでしょうね。

海外で「クール・ジャパン」が流行っているのも、このようなところに理由があるように思います。

しかし一方で、例えばコンビニの場合、日本でのおでんのダシは日本人好み用になっていますし、中国のおでんは中国人好み(しかも地域特性を考慮)になっています。

つまり、「日本人の好み」が世界で通用する、ということではないわけで、「仕組み」と「好み」をちゃんと分けて考える必要がある、ということだと思います。

言い換えると、

  • 仕組み(仮説検証の手法や、ビジネス管理手法)はグローバルで考え、
  • 地域特性等の好みはローカルに合わせる

…ことが必要なのではないかと思います。

外資系に勤務する立場では、割とグローバル化の洗礼を受ける立場にありますが、グローバルの立場で考えて仕組みを作り、お客様や市場に対してはローカルに考えて必要であればグローバルに対応できるようにすることが必要なのではないかと思います。

特に、「仕組み」と「好み」の違いを意識することは極めて重要だと思います。

本来ローカルに合わせるべき好みをグローバルで各地に展開したり、本来グローバルで考えるべき仕組みをローカルのみで最適化して作ったりしないようにしたいですね。

 

関連リンク: 「"メード・イン・ジャパン" 米国流⇒日本流⇒世界流」