現在、米国では大統領選挙の予備選が行われています。
現在、激しい論戦の末、民主党と共和党の候補が決められ、その次に各党候補同士の論戦が始まり、選挙を行って大統領が決まります。
ディベートにつぐディベートを繰り返し、多くの候補をふるい落として最後に1人の大統領を決めるまでに、実に1年以上かけていることになります。
この大統領選挙を見ていると、「議論を徹底することで、よりよき民主主義政治を実現しよう」と考える米国社会の仕組みがよく分かります。
空気でモノゴトが決まり、国のトップである首相も選ばれていく日本では、このような仕組みは働かないように思います。
大統領選挙のように議論を徹底してモノゴトを決めていく米国の意思決定の仕組みと、日本でのモノゴトの決まり方を比較すると、日本人と米国人の議論が噛み合わないことが多い理由がよく分かるのではないでしょうか?
米国社会の場合、議論は、前提⇒理論⇒結論で構成されます。この際、下記の要素が含まれている必要があります。
・議論の結論が、前提から導き出されること
・その前提が、正しいこと
・その前提が、結論と関連性があること
・結論が、新しい事象が発生しても影響されないこと
前提に同意し、かつ、議論のロジックに同意したら、その結果として導き出される結論には、米国人は同意せざるを得ません。そのような構造になっているということです。
米国人と議論する際に、議論が一つずつ進むたびに、「ここまでの議論には、あなたは同意するか?」(Do you agree?)と米国人がしつこく聞くのは、上記のロジックを順番に検証しているためでもあります。
民主主義的な決定も、このロジックが基本です。大統領選挙でも、このロジックによる膨大な議論の積み重ねの結果、大統領が決定されます。
日本社会の場合も、議論は、基本的に前提⇒理論⇒結論で構成されます。しかし、一番重要なのは空気です。
前提に同意し、理論に同意しても、その結果導き出される結論には必ずしも同意するとは限りません。
「確かに理屈ではそうだが、実際は違う」とか、「今のそんなことをできる空気ではない。空気を読め」「KY?」ということになったりします。
仮に事実について議論を行っていても、論理的な部分を超えた部分で議論が進みます。民主主義的な決定も、必ずしもロジックに従わないケースが多くあります。
日本的な言い方をすると「理屈を超えたところで決定している」ということです。
日本と米国社会の議論が噛み合わないのも、ここに由来しているように思います。
日本人からすると、比較的ロジカルな考え方をするタイプの日本人でも、現実の世界では現実に併せて柔軟に方針を変えるため、米国型のロジックに徹した議論についていけないように思います。
米国人からすると、ロジックを組み立てた議論を行っている最中に、それまで積み立ててきたロジックを無視した議論を行ってくる日本人が理解できず、フラストレーションが溜まるようです。
草枕ではありませんが、「智に働けば角が立つ」と言われたりすると、"Why!?"と全く理解できないのです。
困った米国人が「なぜ?」「どうして?」と日本人に尋ねても、"You do not understand the reality."(「現実は違う」)と返答され、「じゃぁ、その現実を説明してくれ」と言っても、日本人同士では暗黙の了解でよく分かっている現実を、米国人には論理的にうまく説明できない、ということがよく発生します。
どちらがよい、悪い、という問題ではありません。
ただ、この違いが様々な摩擦を生んでいることも事実です。
最近の米国人の中には、なぜ自分達と日本人と議論が噛み合わないか、彼らなりに勉強している人達もいるようです。
なぜ議論が噛み合わないのか、まずは相手をお互いに知るところから、理解が始まるのではないかと思います。
ちなみに、先に紹介したロジック主体の米国型議論に対抗する方法は、以下の通りです。
先に述べた通り、議論は下記で構成されますので、…
・議論の結論が、前提から導き出されること
・その前提が、正しいこと
・その前提が、結論と関連性があること
・結論が、新しい事象が発生しても影響されないこと
これを個別に検証していくことになります。
・議論の結論が、前提から導き出されているかどうか?
・前提が、正しいかどうか?
・前提が、結論と関連性があるのか?
・結論が、新しい事象により影響を受けないか?
ちょっと難しくなりましたので、例を挙げます。
例えば、以下のようなケース。
多くの関西人はタイガースファンである。
鈴木さんは関西に住んでいる。
従って鈴木さんはタイガースファンである。
「あ!あなたは関西人なんですね。じゃぁ、タイガースファンでしょ」と短絡するケースですが、言うまでもなく、関西人の鈴木さんがジャイアンツファンの可能性もあるので、この議論は間違っています。
これは非常に分かり易くした例なので、間違いがすぐ分かります。
しかし、米国人は複雑な状況でこのような構造の議論をあえてふっかけてくることがあります。逆に日本人はこのような不完全なロジックを持って議論に臨み、論破されがちです。
もう一つのケース。
全ての関西人はタイガースファンである。
鈴木さんは関西に住んでいる。
従って鈴木さんはタイガースファンである。
この場合、組み立てたロジックはそれなりに正しいのですが、「関西人は全てタイガースファン」と決め付けている前提が間違っています。これも複雑な状況ではだまされやすいロジックです。
非常に分かり易い例を挙げました。
さて、上記のような議論を行って、米国人との関係が悪くなるでしょうか?
私のささやかな経験からいうと、そんなことは全くなく、むしろ関係はより親密になることが多いようです。
欧米社会は、弁証法的思考で動いています。
弁証法的思考とは、議論を通じてお互いが抱える問題の本質を探り出し、よりよい結果を得ようとする考え方です。このためには、様々な異なる意見を出し合って、建設的に議論を行っていく必要があります。
「正・反・合」…つまり、正反対の意見を含めて議論し尽くすことで、新しい価値を生んでいくのです。
このための考え方が、弁証法的思考です。
欧米社会では、歴史的にこの思考形態で様々な対立する問題を解決してきました。社会の中に、この考え方が浸透しています。
そして、この思考形態は、様々な価値観を持つ人達で構成されるグローバル社会では、ある意味で標準的な手法でもあります。(欧米社会でも東洋思想も取り入れ始めてはいますが、残念ながらまだ少数派です)
このような社会では、異なる意見は、「現在の問題を解決し、よりよきものへと発展させるためのの貢献」として歓迎されるのです。
逆に、意見を持たない者は、「よりよきものへ発展させようとする貢献意欲が乏しい者」と見なされます。
「日本人の空気による議論の進め方」と、「欧米社会によるロジックの積み重ねによる議論の進め方」。
繰り返しになりますが、どちらが優れている、というものではありません。
ただ、グローバル社会では、ロジックの積み重ねによる議論の進め方が主体であることは事実です。
グローバル社会と関わっていくためには、我々もこの方法を身につけていくことが必要なのではないでしょうか?