一部の意見は案外強い、が….

世の中の一般的な傾向として、最近、一部の意見に大きく反応する傾向が強くなっているように感じています。

このことは、私自身もブログを書いていて感じています。

実際、「あえて指摘する程のことではないが、この書き込みはxxxxを侵害している可能性がある」というご指摘をいただき、リスク回避のために書き込みを修正したことがあります。(このご指摘自体については、私自身全く認識していなかったことなので、感謝しています)

一方で、この私の対応に対しては「誰も迷惑を受けた訳ではないのに…」という反応もいただきました。

 

このように、リスク回避のために一部の意見に対しても大きく反応する傾向は、企業でも同様ではないでしょうか?

ネットが普及する前、個人が現在程情報発信力を持っておらず情報の非対称性も存在していた時期、一般的な傾向として、企業は消費者一人一人の反応に対して、現在ほどセンシティブではなかったように思います。

ネットが普及する過程で、個人が情報発信力を付け、かつ情報の非対称性のバランスが崩れていることを見誤った企業と消費者の間で、様々な事件がありました。

ネットが社会のインフラとして定着した現在、情報の非対称性が非常に小さくなり、情報発信力を増大させた個々の消費者に対して、企業は過剰反応しているように感じます。

社会一般でも同様の現象が起きているように思います。

今まで世の中の多くの人達が知りえなかったマイナーな意見が、ネットによって多くの人々に伝えられるようになったこと自体、素晴らしいことであると思います。

しかし一方で、過剰な状態は、時間が経過するうちにバランスを取って均衡状態に落ち着いていくのも、世の中の流れです。

今後、何らかの形で揺れ戻しがあるのではないでしょうか?

2007-09-11 | カテゴリー : 社会 | 投稿者 : takahisanagaicom

IBMビジネス・コンダクト・ガイドライン(BCG)がWebに掲載

IBMに在籍なさっていた方々はご存知かと思いますが、IBMには、企業行動基準を定める「ビジネス・コンダクト・ガイドライン」(略称BCG)というものがあります。

全てのIBM社員はこのガイドラインを徹底することを強く求められており、毎年このBCGを熟読した上で、遵守する旨のサインを提出することを義務付けられています。

私も入社以来、毎年サインしています。

BCGの内容もビジネス形態が大きく変わってきたのに伴い、毎年修正されています。

このBCG、以前は社外秘だったと記憶しているのですが、最近、社外向けウェブサイトで公開されていることを知りました。

社会的に企業倫理が大きな関心事となり、社外から問合せを多数いただいた結果だそうです。

ご興味のある方はこちらをご覧くださいませ。

2007-08-09 | カテゴリー : 社会 | 投稿者 : takahisanagaicom

柏崎原発の教訓

今回の柏崎原発の被害に対して、やや感情論で報道するマスコミが目立ちました。

一方で、大前 研一氏が「柏崎原発、褒めるべき点・反省すべき点」という、元原子力研究者の面目躍如たるコラムを書かれています。

考えてみると今回の地震は、原子力発電所を直撃し、かつ、原子炉が自動で緊急停止した、恐らく最初の事例なのですね。(もしかしたら、私が知らないだけで、他に事例があるかもしれませんが)

その意味で、第6段階まで進んだチェルノブイリ原発や、第5段階まで進んだスリーマイル島原発の事故とは全く性質が違うものです。

しかしながら、マスコミの報道の中で、大前氏と同じ視点で書かれた記事は、私が読んだ限りでは7月25日の日刊工業新聞「されど原発 変わらぬ重要性」だけでした。この記事では、各紙が事故隠しを糾弾している中で、予測を上回る地震でも自動停止した点を指摘する一方で、原発に頼らざるを得ない日本の現状を踏まえた考察を冷静に行っています。

(尚、当コラムへのコメントによると、7/26付の読売新聞の社説でも同様の論点があったようです)

原発の是非については根深い問題でもあり、またいわゆる「トラブル隠し」と言われている内容についても色々と複雑な問題が絡むので、当ブログではその点は論じません。

一方で、今回の一連の報道で痛感したのは、風評の怖さです。

大前氏の記事によると、海外のメディアの中には「チェルノブイリや米国のスリーマイル島の事故並みの損害」と伝えているものもあるそうです。

実際、イタリアのセリエAのチームは放射能漏れの恐れのある国に行きたくない、と来日予定をキャンセルし、ロシアのテレビ局では日本海の対岸ウラジオストックあたりが放射線で汚染されないか、ガイガーカウンターによるモニターを開始した、と伝えているとか。

本来、企業広報は極めて重要であり、何かアクシデントが起こった場合は、問題点を分析し、評価されるべき点と、改善を要する点を明確に分け、後者についてはその対応策を定め、メッセージを分かりやすくかつタイムリーに外部に伝えることが必要です。

一方で大前氏はこのような風評が広がった理由を、「大臣が社長を呼びつけて怒ったことで、よほど(隠匿などの)悪いことをしたのではないかという印象を与えた」ため、と分析しています。

政府からこのような対応がされる時点で、一企業の広報活動の努力でどうこうなるレベルを超えています。ご担当者のご苦労を思うと、頭が下がる思いがします。

 

さて、当コラムの最後で、大前氏は以下のように言っています。

—(以下、引用)—

 事故は起こってしまった。賢者はそれから次の事故を防ぐ方法を考える。愚者は怒ったり、泣いたり、感情的になって、現実を見ようとも、教訓を学ぼうともしない。次の被害がどのくらい差し迫っているかいたずらに騒ぎ立てる。

—(以下、引用)—

私達は「賢者」でありたいですね。

2007-08-06 | カテゴリー : 社会 | 投稿者 : takahisanagaicom

その時慌てないための、AEDの使い方

1分間、除細動が遅れることで、救命率は7-10%減少するそうです。

最近、多くの場所に設置され始めたAED。

音声ガイドで非常に使い易くなっていますが、せっかくのAEDも、「その時」に慌てて使い方を間違えてしまうことで、救命率が下がってしまいます。

出来るだけ多くの方々がこの動画をご覧になることで、より多くの命を救うことができるのではないでしょうか? 

■「AED使用の意義」(動画)

■「一般市民が行うAEDを用いた心肺蘇生法」(動画)

より詳しい情報を知りたい方は、こちらをどうぞ。

2007-07-19 | カテゴリー : 社会 | 投稿者 : takahisanagaicom

新宿ガムテープ道案内

JR新宿駅を利用される方は目にされた方も多いと思いますが、ガムテープを使って警備員の佐藤修悦さんが自作されたものだそうです。

こちらに取材した様子があります。

非常にセンスのよい、一種の作品に仕上がっていますね。

この取材を見ると、周りの人達の意見を取り入れて創意工夫を重ねながら作っていったことがよく分かります。

このような作品を必要に迫られて作ってしまうのが、日本企業に働く匠の凄さなのかなぁ、と思います。

佐藤修悦さんは新宿駅から日暮里駅に転勤になり、現在日暮里でも作品が見れるそうです。

私達のメディア・リテラシーは進化している?

私は子供の頃、木曜スペシャル等でやっていた「宇宙人は存在する」とか「超能力者特集」といった類の番組が大好きでした。今はさすがに見なくなりましたが。

ユリ・ゲラー来日の時も、壊れた時計を持ってテレビの前でじっと番組を見ていたクチです。(^^;

なぜこんなことを書いているかというと、「超能力番組を見るときの心得とは」という書評記事を見て、昔の頃を思い出したためです。

この記事によると、超能力番組を見る際の六つの心得があるそうです。

—(以下、引用)—

1.超能力番組は録画して重要なシーンは繰り替えし見よ。
2.超能力番組は疑いの心を持って見よ。
3.超能力番組は思いこみを捨てて見よ。
4.ナレーションやテロップ(字幕)にまどわされるな。
5.テレビにはすべてが映っているわけではないことを忘れるな。
6.テレビ局は超能力者の味方だと考えよ。

—(以下、引用)—

ううむ、マーケティング等を行う際にも、ある意味、メタファーとして参考になりそうなポイントですね。ネット全盛時代だからこそ、重要な指摘と思います。

著者は「そんな番組を作るな」とは言っているのではなく、「正しい懐疑の目で番組を見よう」と語りかけているそうです。

他人同士で簡単に情報のやり取りができる時代だからこそ、情報の真偽を自ら判断できるメディア・リテラシーが、ますます重要になってきているということですね。

そう言えば、アルビン・トフラーが「第三の波」を書いた80年代、トフラーはテレビ番組の中で、たしか未来の子供達に必要な能力として「メディアの理解」を挙げていたように記憶しています。

確かに、最近の子供は、メディアで流される情報をそれなりに理解している人も多いように思います。

昔の私のように、「宇宙人は存在する!」とか「超能力者特集」といった番組には素直に反応しなくなった、ということでしょうか?

2007-07-06 | カテゴリー : 社会 | 投稿者 : takahisanagaicom

好きで好きで夢中にやり、無条件に自分を信じられる強さ

今月の日本経済新聞「私の履歴書」は、長嶋茂雄さんです。

今日(7/3)は野球漬けの毎日だった高校生の頃の話が描かれています。

—(以下、引用)—

 庭にある樹齢三十年の柿の木の下でバットを振るのが日課だった。後楽園に行った日は夕方、余韻冷めやらぬうちに「長嶋、打ちました」と藤村さん(注:タイガースの藤村富美男さん)のフォームをまねた。下手でも振って振って、好きで好きで夢中でやった。

 今で言うメンタルトレーニングだろう。スター選手のバッティングの物まねを一通りおさらいしたあと、いよいよ私の独壇場の世界に入る。

 「バッターは四番、長嶋、悠々バッターボックスに入ります。構えました。第一球はカーブ、ボールです。第二球、長嶋、打ちました。ボールはぐんぐん伸びております。センターバック、センターバック。ホームラン、長嶋、みごとなホームランです」

 とっぷりと日の暮れた柿の木の下で、自己陶酔の実況アナウンスが夢を膨らませた。もうジャイアンツの未来の四番になりきっていた・

—(以上、引用)—

この記事を拝見して、あの長嶋さんが若い頃に一人で実況アナウンスをしながら素振りをしている様子がまざまざと思い浮かびました。

なるほど、長嶋さんのあの素晴らしいプレイの数々は、高校生の頃の柿の木の下の素振りと無意識に行っていたメンタル・トレーインングに源流があったのですね。

このように「好きで好きで夢中にやり」、無条件に自分を信じられることが、長嶋さんの強さですね。

この「好きで好きで夢中にやる」ということは、その道を極めるための一つの方法だと思います。

ただ、こればかりは意図してもなかなか巡り合うことはできません。

今、好きで好きで夢中にやりたいことがある人は、幸せですね。

2007-07-03 | カテゴリー : 社会 | 投稿者 : takahisanagaicom

思ったより早く宇宙旅行が身近に?

このようなものベンチャー企業が企画して、実際に2基の宇宙ステーションを既に軌道に乗せているというのがすごいですね。こちらに記事があります。

2010~2012年に投入されるBA 330では、宇宙滞在4週間。1500万ドル(18億円)で宇宙観光できるそうです。

既に軌道に乗っているGenesys 2との比較図も載っていますが、かなり本格的なもののようです。

現時点ではロケットで打ち上げて軌道に乗るまでが絶対安全という訳ではないので、恐らく宇宙観光するのにあたっては生命の保証がないことに同意した旨の契約書にサインする必要があるのでしょうね。

身近とはとても言えない金額ですが、お金さえあれば思ったよりも早く宇宙旅行が現実的なものになりつつあるのかもしれません。

2007-06-30 | カテゴリー : 社会 | 投稿者 : takahisanagaicom

東京に移転した新・ムツゴロウ動物王国

2004年に北海道から東京・あきる野市にある東京サマーランドの飛び地に移転していたそうですね。

こちらに王国のホームページが記事があります。

また、詳しい記事はこちら

王国には特に目立った珍しい動物がいる訳ではなく、犬約140匹、猫約40匹、馬約20頭、人間約30人が暮らしているとのこと。東京では人間との生活の歴史が長い動物だけを飼っているそうです。

受付で犬が昼寝したりしていて、全く自然な感じなままのんびりと暮らしている動物たちがいいですね。

動物園を、縦軸に動物の珍しさ度、横軸に動物とのふれあい度を取って分類すると、王国は珍しさ度はかなり低い一方で、ふれあい度はきわめて高い、かなり特化した位置づけになると思います。

むしろ王国は、動物園とは全く別モノと考えるべきかもしれませんね。

2007-06-26 | カテゴリー : 社会 | 投稿者 : takahisanagaicom

温暖化ガスで地球が滅びることはない

本日(6/24)の日本経済新聞の記事「温暖化の地球史(1)激しい気温変動頻繁に」で、過去46億年の地球の温暖・寒冷のサイクルについて紹介されています。

地球史全体の中では、人類が繁栄しているここ1万年はきわめて安定した気候なのだということがよく分かります。

—(以下、記事からのサマリー)—

46億年前:灼熱地獄。徐々に冷え、マグマからの水蒸気で雨が3000年間降り続き、38億年前までに海が誕生。

27億年前:大気の97%を占めていた二酸化炭素が海水に溶け、光合成で酸素を放出する生物も増殖し、温室効果が失われて冷え始める

24-22億年前:地表がすべて凍りつく大氷河時代。赤道も1000mの厚い氷に覆われ、平均気温マイナス50度。温室効果の低下から全球凍結になるまでに数万年かかった。凍った地球が数百万年続いた後、二酸化炭素濃度が現在の数百倍になったため、極端な温暖化が起きる。氷は千年もかからずに消え、平均気温は50度にもなった。

8-6億年前:同様の大氷河時代が2回あった。

5億4千万年以降:中緯度地方まで大規模な氷河が覆う時代が3回あった

ジュラ紀・白亜紀:温暖で、氷河のない時代だった。

最近の氷期:約11万年前に始まり約2万年前にはニューヨーク付近まで氷河が広がり約1万年前まで続いた

—(以上、記事からのサマリー)—

ここ1万年の地表の平均気温は15度程度で変動はプラス・マイナス1度程度で、例外的に安定した気候ですが、その直前には数十年で7度上昇し、また数年から十数年で5-6度変化する時期も頻繁にあったそうです。

21世紀末までに平均気温が5-6度上昇すると言われていますが、このようになると、言うまでもなく人間にとっての影響は甚大です。

しかしこのような現象も、地球史全体で見ると、頻繁にあることなのですね。

実際、地球46億年の歴史の中では、二酸化炭素の量が大気の97%を占めていた灼熱の時期もありましたし、逆に赤道まで1000mの氷に覆われた大氷河期もあり、つい最近もニューヨークまで氷河で覆われた時期もありました。

このように見ると、「温暖化ガス排出で地球が滅びる」という考えは、もしかしたら、人間の尊大なエゴなのかもしれません。

確かに地球温暖化が続くと、人間という種の存続のためには非常に難しい環境になります。

しかし、仮に人間が滅びても、地球という生命体は滅びることなく、46億年前から始まった進化を続ける筈です。

人間が地球をコントロールするという発想自体、間違っているのではないでしょうか?

従って、私達は、「人間もこの地球という生命体の一部である」という認識を持って、どのように地球と共生していくかを考えるべき時期に来ているのではないかと思います。

付記(2007/6/26 22:40):

地球温暖化対策が緊急の課題であることは言うまでもありません。地球で他の生物と共生し、温暖化の大きな原因を作り出している人間として、責任を持って対策する必要があります。このことについては、当ブログでも過去何回か問題提起させていただいている通りです。

一方で、これとは別に、地球全体の歴史を長期的に考える視点もまた、必要ではないかというのが、本エントリーの主旨です。

両者は異なる視点であります。言うまでもなく、後者の視点は「だから過去も温暖化があったから、問題ないではないか?」という結論には繋がりません。実際に、過去、地球全体で気候の大変動があった際には、多くの生命が死に絶えたのですから。

ご指摘をいただきましたので、注記させていただきます。

我々は本質的なところでコミュニケーションできなくなっているのかもしれない

『「僕たちの担任やってください」体罰の教諭復職』という記事を読むと、今の生徒達や教師も、実際には根底の部分では昔と変わっていないことが分かりますね。

このように、相手の心に真正面から正対して接してくれる教師に教えられる生徒は、幸せです。

先日のエントリー『教師と生徒が平等な訳はない』で、生徒達に毅然とした態度を取ることができていないことを、その後のエントリー『生徒が教師と平等と思う理由』では、生徒達が教師に友達感覚を求めていることを書きました。

この記事を読んでから改めて考えてみると、教師、生徒、保護者の間のコミュニケーションのすれ違いが問題の根本にあるように思います。

現代では、ITが世の中に普及し様々なコミュニケーション手段が用意されています。

しかし、この一連の問題を見ると、問題の根本には、我々が本質的なところで昔よりもコミュニケーションが出来なくなりつつことがあるではないか、とも思えます。

このような時代、田坂広志さんもおっしゃっているように、「心得」を持つことがますます大切になってきているのではないでしょうか?

スイッチを押しても、人間は生き返らない

日本女子大と日本大学の調査によると、「死んだ人間が生き返ることがありますか」という質問に対して、小学生の3割は「ある」と答えたそうです。

「死」というものが実感できないためでしょうか? 考えさせられる結果ですね。

私が「死」を初めて実感したのは、3歳の時に家で飼っていた、大のお気に入りだったジュウシマツが死に、冷たく固くなり動かなくなった時でした。

家の庭にお墓を作って埋めながら、「生き物は死んだら元に戻らない」ということを実感しました。

生きていると色々なことがあります。

理不尽な目にあったり、苦しかったり、悩んだり、….。

一方で、楽しいことも沢山あります。

しかし、楽しいと思うか、苦しいと思うかは、自分の気持ちの問題です。

理不尽な目にあったり苦しかったりする状況は、見方を変えると、自分を鍛える修練の場と考えることも出来ます。

でも、一度死んでしまったら、このようなこともできないのです。

そしてその日は、残念ながら必ずやってきます。

過去の全ての人達は、一人残らず、その日を迎えています。

ゲームのように、「スイッチを押すと、生き返ってやり直せる」ということは、残念ながら絶対ありません。

そして、その日はいつやってくるかわかりません。

明日かもしれません。

もし明日、その日がやってくると思えば、私達は、今日という日をよりよく生きようとするのではないでしょうか?

もし30日後だったら….同じく今日から30日間、よりよく生きようとするでしょう。

1年後だったら….30年後だったら….。

実は本質は何も変わっていないように思います。

それであれば、今日という日をよりよく生きたいものです。

今をよりよく生きるためには、死を意識することは、必要なのではないでしょうか?

長時間労働・長時間通勤の社会的リスク

日刊工業新聞の連載「リスク管理」では、様々なリスクを分析していますが、6月6日は「都市化と長時間通勤」がテーマでした。

—(以下、引用)—

●長時間勤務と日本特有の長時間労働で、働く女性に家事や育児の労働の負担が重くのしかかり、少子化や家庭崩壊を生むリスクがある

●また、「夕食」ならぬ「夜食」しか食べられない男性をもつ家庭では、夫婦のすれ違いによる不和や離婚のリスクがある

●国土交通省の大都市交通センサスによると東京圏では片道90分以上を要する通勤・通学者の割合は20%近い。NHK国民生活時間調査をみても、東京圏は地方圏よりも平均30分程度長い。

●週に50時間以上労働する割合は、フランス5.7%、スウェーデン1.9%等ヨーロッパ諸国が5%前後に止まっているのに対して、日本では28.1% (国際労働機関(ILO)の国際比較調査2004年より)

●午後6時までに帰宅している男性の割合がスウェーデンでは70.9%に対して日本では6.8%。午後8時以降の帰宅が6割以上。(2005年の内閣府調査結果)

●都市の外延化傾向は変わらないが、新線の開通、相互乗り入れなどにより通勤の長時間化には歯止めが出てきた。また、フレックス制などの採用により、空いた時間での通勤が可能になっている。

●往復の通勤時間を労働持間に充当できる環境(走るビジネス列車など)の提供が望まれるとともに、企業も裁量労働制の導入などを行い、長時間通勤と生活の調和を図り、豊かな家庭生活を再構築する努力や工夫を支援すべきだろう

—(以上、引用)—

数字で比較すると、東京圏の通勤時間の長さと、日本の長時間労働の様子が改めてよく分かります。

「午後6時までに帰宅している男性は70%」というスェーデンの家庭環境、日本とは全く違う状況なのでしょうね。

長い通勤時間を活用して仕事を行えるようにする提案。現在の満員電車では難しい課題ですが、より幅広いフレックスタイム導入と技術の組み合わせを行うことで対応可能なのではないでしょうか? 在宅勤務も、長時間通勤が社会リスクになっている日本でこそ必要性が高いのではないかと思います。

一方で、ますます厳しくなる競争環境の中、行うべきこととやらないことを明確に決め、フォーカスを絞り、しっかりとした企業戦略を立てることが、最終的には企業の競争力維持と豊かな家庭環境構築の両立に繋がってくると思います。

これらの解決策を社会全体で進めるためには、「長時間労働と長時間勤務は、社会全体で見ると大きなリスクである」「豊かな家庭環境の構築が企業の競争力向上に繋がる」という社会的なコンセンサスが広がる必要があるのではないでしょうか?



キーワード記事*

通勤時間

労働時間

2007-06-08 | カテゴリー : 社会 | 投稿者 : takahisanagaicom

生徒が教師と平等と思う理由

一昨日のエントリー「教師と生徒が平等な訳はない」で引用したオリジナルの記事で、最近の生徒達が教師に対して以下の感覚を持っていることが紹介されていました。

—(以下、引用)—

「いわば『友達感覚』。上下関係という規範意識よりも、親しみを表す方が優先順位が高いのだと思う。学生からすれば『私たちの仲間に入れているのになぜ距離を置くのですか』という気持ちかもしれません」

—(以上、引用)—

最近の生徒達がこのように思う理由が、鈴木貴博さんが書かれた「タテ社会に生きる“ガンダム世代”と、ヨコ社会に住み始めた“ワンピース世代”」という記事に書かれていて、非常に納得しました。

「ガンダム世代」(=旧世代)も「ワンピース世代」(=ポストY世代)も、ムラ社会で生きている点に変わりはありません。

しかし、「どこに所属しているか」が重要であり組織に縛られた「ガンダム世代」に対し、「ワンピース世代」は「自分と自分の仲間たち」が重要であり組織よりも仲間を大切にする世代である、ということなのですね。

「ワンピース世代」が教師に友人感覚を持つことは、「ガンダム世代」が教師に敬意を払う事に近いのかもしれません。

どちらの価値観が正しい、間違っている、ということはないとは思います。

しかし、教育の現場では、「教師と生徒が平等な訳はない」という考え方、つまりタテ社会の考え方を必要とされている面もあります。

ヨコ社会の価値観に向き合い、タテ社会の価値観が通じない現実に立ち会っている学校の先生方のジレンマとご苦労、お察しいたします。

2007-06-01 | カテゴリー : 社会 | 投稿者 : takahisanagaicom

教師と生徒が平等な訳はない

小学校6年生の同級生とは、今でも同窓会を行っています。

当時の担任だった先生は一昨年定年を迎えましたが、髪は黒々としていて背筋もすらっと伸びていて、とても60代前半には見えません。40代後半程度のようです。

その先生に教わったのは、今からもう34年前になります。

先生は、生徒達が授業で騒いでいたり礼儀がなっていないと、ゲンコツで小突いたり、竹刀で叩いたり、授業中に机の上で正座をさせたりしていました。

小学校の卒業アルバムを見ると、誰が撮影したのか(?)、確かに机の上に座らされている同級生がいます。

このように非常に厳しい先生でしたが、母親達は全面的に先生を支持していました。

曰く、「先生に殴られるアンタが悪い!」

体罰がいい・悪いという問題以前に、善悪の区別が付かない子供達に対して大人は何が正しく何が間違っているのかを子供達に明確に示す責任があり、この点で先生を全面的に信頼している、という単純な理由です。

先生はよく「あんた達のお母さん方には感謝している」とおっしゃっています。単に体罰がいい・悪いだけで判断せず、大人として子供に何をすべきかを考えた母親達に対する感謝でもあったと思います。

ちなみに、私達6年3組の同窓生達は、卒業後もよく先生と同窓会を行っています。一昨年に先生が定年を迎えた際には、同窓生一同の企画で、母校の小学校で先生の教師としての卒業式を行いました。

この6年3組の同級生達の母親達は、今でも母親同士で付き合いがあり、母親同士で一緒に旅行に行ったりしているようです。

一方で、本日(5/29)、IZAに掲載された「【溶けゆく日本人】指導の手段失う教育現場」という記事、ちょっとショッキングでした。

子供を信じることは確かに大切です。しかし、子供対教師の世界でけじめをなくしてもよい、ということにはならない筈です。

上下関係を自ら放棄し、ルールを教えることを軽んじ、個性や自主性ばかりを重視する教師の姿からは、何が正しくて何が間違っているかを自らが自信を持って明確に示すことができないジレンマも同時に感じます。

私達の先生によると、私達が小学校を巣立ってから10年も経つと、PTAの圧力が強まって、私達に対して行っていたことは徐々にできなくなっていったそうです。

私達の親の世代は厳しい教育を受けてきた戦前生まれ。一方で10年後以降の子供達の親は自由主義の教育を受けてきた戦後生まれ。こんなところにもしかしたら違いの原因があるのでしょうか?

2080年代、大都市の最高気温が50度になると、何が起こるか?

こちらの記事によると、2080年代にはシカゴ、ワシントン、アトランタの夏の平均気温は40度以上に上昇するそうです。NASAの調査です。

「日中の平均気温が40度とした場合、都市部の最高気温は平常的に45~50度にまで達する恐れもでてくることとなる」とのこと。

最高気温が平常的に50度近いというのは、ちょっと想像しにくいと思いますが、私はこのような場所に2回行った事があります。

米国・カリフォルニア州のデス・バレーです。

ここは海抜下数十mで、両側の谷に挟まれて一種の対流現象が起き、いつも雲一つなく晴れていることもあって、低い場所になるほど気温が上がるような仕組みになっています。

ここは、「暑い」というよりむしろ「熱く苦しい」という感じで、野外に数分いるとかなり辛いところです。

各種ガイドには以下の言葉が繰り返し書かれています。

「水をたくさん持っていくこと」
「車が動かなくなったら、決して動かずに日陰で他の車が来るのを車の中で待っていること」
「車のオーバー・ヒートには常時気をつけること」

車で行くことになりますが、エアコンを使うとオーバーヒートするので、エアコンは切らざるを得ません。

実際、10年以上前にデス・バレーに行った際に、車のガソリンが沸騰したような現象が起こりました。ガソリンの給油口にふたをしているにもかかわらず、隙間からガソリンが噴出するのです。

ボンネットを開けて、ラジエターに水をかける等をして10分間程車を冷やすと直り、デスバレーの真ん中でガス欠になるという最悪の事態は免れましたが、このように気温が50度近くになると、普通では想像もできないことが起こります。

ご参考までに、この時のレポートとデス・バレーの写真はこちらに掲載しています。

 

このことから分かるように、大都市が最高気温50度にさらされる様になると、都市としての機能が停止します。

もちろん、シカゴ、ワシントン、アトランタだけがこうなるのではなく、東京などの世界の都市も同様の影響を蒙ります。

70年後にこのような世界になる可能性があると、我々の20年後・30年後のライフプランも大きな影響を受けます。

一例を挙げると持ち家をどこに持つか、という問題で、例えば東京近郊の持ち家を放棄し、シベリアやアラスカに移住せざるを得ないということが、現実的になるかもしれません。

過去30年間の観測記録に基いた予測ですので、今後の対応を誤ればこのような世界になってしまうということですね。

地球レベルの大変動を受け入れるか、我々の生活習慣レベルで我々として出来ることは少しずつ、しかし数年で大きく変えていくのか、我々は現在、選択肢に迫られていると思います。

戦前の東京のカラー映像

YouTubeで見つけました。この時代の白黒映像は良く見かけますが、カラー映像の臨場感を再認識しますね。

女性はみな着物で、時代を感じさせますが、人々がとても活き活きとしています。

白黒映像だと、どこか遠い国の映像に見えますが、このようにカラー映像で見せられると、確かに現代の我々と同じ日本人なのだということを実感します。

ただ、人々の動きは、現代の我々と比べてとてもゆったりとしていて、余裕を感じます。

ちなみに、こちらには、昭和十年頃の銀座、丸の内、浅草の画像があります。

もしかして既に旧世代!?

私はケータイ・メール等も一応使いますが、入力文字数で換算すると恐らく99.99%はパソコンで入力しています。

ある程度パソコンを使えることで、比較的進んでいる新世代にいる積もりでしたが、もしかしたら私は既に古い世代になってしまったのかもしれません。

昨日(2007/4/17)の日本経済新聞特集「われらケータイ族―パソコン族と摩擦を超え」では、パソコン族とケータイ族の行動様式の違いを描いています。

—(以下、引用)—–

 二つの族は同じネット文明の下で暮らしていても思考や行動様式が異なる。時にはあつれきも生じる。

 国内最大の競売サイトのヤフーでは、パソコン族の出品者がケータイ族の入札者の礼儀のなさを憤る。落札直後に丁寧なお礼のメールを送っても、返事は「はい。分かりました」とそっけない。一方、ケータイ族はパソコン族に商品の内容を問い合わせたのに「一時間たっても返事がこない」と怒る。通話の延長線上の携帯メールと、手紙の延長線上のパソコンメール。時間や表現方法に対する感覚の違いが摩擦を招く。

—(以上、引用)—–

確かに、ケータイからのメールで「そっけない返事だなぁ」と思うことは時々あります。

一方で、常にパソコンに向かっていて時間がある程度余裕があるのであればともかく、一時間以内で返事をするのはパソコン族としては難しいのですが、これはケータイ族にとって許されないことだったのですね。

同記事で、ケータイで小説を書いたり、大学のレポートを提出する例も紹介されていますが、私にはそもそも、大学のレポートがケータイで書ける、という発想ができません。

巷で流行のモバゲーも、私にとってかなり敷居が高いように思います。(ただ、これは食わず嫌いという面もあります)

時代はもの凄い速度で走っているのですね。

とりあえず、取り残されないようにしましょう。

「自由」と「自由」の違い、ご存知ですか?

人間、誰でも自由でいたいですね。しかし自由を求めるあまり、自分の責任を果たしていないケースも多いように思います。

「でも、いいじゃん。自由なんだから」

ちょっと待って。

日本語では、「自由」という言葉は一つですが、英語ではこれに相当する言葉が二つあります。

一つはFreedom。もう一つはLiberty。

両方とも、日本語では「自由」と訳されます。

似ているように思えますが、実は場合によっては正反対の意味を持ちます。

Freedomは、「束縛されない自由」を意味しています。この自由は与えられるものであり、責任は免除されています。

ちょうど何物にも束縛されず自由奔放・わがまま放題に振舞う子供を想定していただくと、近いのではないでしょうか?

一方のLibertyは、「束縛から解放された自由」を意味しています。この自由は勝ち取るものであり、責任が伴います。

例えば、ニューヨークにある自由の女神像の英語は"the Statue of Liberty"です。アメリカ合衆国独立100周年に、独立を勝ち取った記念としてフランスから贈られたものです。ちなみに、自由の女神像の足元には切られた鎖がありますが、これは抑圧・暴政から開放され自由になったことを象徴しています。

Freedomは子供の世界、Libertyは大人の世界とも言い換えられます。Libertyは自分自身の成長が必要になります。

同じ自由を目指すなら、自分をより高められるLibertyを目指したいものですね。

87歳の大学院生

3月23日の読売新聞に掲載されている「87歳の春、大学卒業「学ぶのは楽しい」…大学院へ」というニュース、いいですね。

この3月に87歳で大学を卒業され、3月から同大大学院経済学研究科に進学するそうです。修了時にはなんと89歳ですね。

曰く 「新しいことを学ぶのは楽しくてしょうがない」。

1932年に尋常高等小学校を卒業して進学せずに仕事につき、1996年に退職を迎え、76歳で中学の夜間学級に入学、高校の定時制課程で学び、83歳で明星大の推薦入試に合格。

キャンパスを歩くと「はっちゃん」と女子学生から声をかけられるほど人気だそうです。

私が社会人大学院に在学した時も、60歳や70歳の人生の諸先輩方が同級生でいらっしゃいました。経営者が多かったのですが、今まで仕事で得たものを体系化したい等、非常に前向きな考えを持っている方々ばかりでした。

「学ぶのが楽しい」という時は、脳が非常に活性化している状態なのではないでしょうか? 認知症が社会問題になっていますが、大変失礼ながら、このような人達は認知症とは全く無縁なのでしょうね。

こういう人達がもっと増える世の中にしたいですね。

2007-03-23 | カテゴリー : 社会 | 投稿者 : takahisanagaicom

みんなの問題

YouTubeで見つけた動画です。

27秒のとても短いものですが、

The Rich and Famous aren’t
immune either, and like you and I,
they want a cure too!

お金持ちで有名人だからといって免疫があるわけではない。
あなたと私も同じく、
治療が必要なのだ。

と最後に結んでいる通り、我々一人一人の問題でもありますね。

温暖化の影響で身近になったジビエ?

私はあまり肉食をしないのですが、時々、イノシシ等のジビエ(狩猟で得た野禽類の肉)をいただく機会があります。家畜の肉と違って、野生ならではの力を感じ、とても美味しく感じます。

昨日(2007/3/1)の日本産業新聞の記事「ジビエ味わい、温暖化考える」で、実はこのようにジビエが食べられるのは地球温暖化が関係しているということを知りました。

記事によると、地球温暖化で冬を越せるシカやイノシシが増え、害獣として駆除される数が急増したためだそうです。2004年度に全国で捕獲・駆除したイノシシは前年度比30%増の8万4000頭で、今年はさらに増えているとか。

今年の冬はついに雪が降らずに終わりそうですが、最近になって、温暖化の影響は身の回りでも確実に増え始めています。

そろそろ、我々全員が、自分自身の問題として考えるべき時期だと思います。

「起こることは、すべて良きこと」と考えられる覚悟

ITproの「自己啓発に悩んでいるあなたへ」という記事で、「神経言語プログラミング(NLP)」の「リフレーミング」という言葉が紹介されています。

記事では、「過去の嫌な出来事,いま自分が直面している嫌なことを取り上げ,これまでとは違った視点からの観察を意識的に試み,その意味を探る」アプローチのこと、と説明しています。

記事では、書籍に囲まれて生活していた人が、拘置所内の生活で三冊しか書籍を持ち込めなかったため、逆に少数の本を深く読む生活が出来るようになったと感じていることを紹介しています。

一方で、田坂広志さんの言葉で、

 「起こることは、すべて良きこと」

という言葉があります。

 自分の身に起こった・やっていることを「引き受けて」、
 それに対して夢中で「取組み」、
 自分自身でその意味を「感じ取っていく」、

改めて、「起こることは、すべて良きこと」と考えられるようになるためには、技術論を超えて、覚悟を伴った人生観と、大いなる意思の力が必要と思った次第です。

ダイエットでセーブしたカロリーを、お腹の空いた人に贈るプログラム

2007/2/15の日経産業新聞で、低カロリーメニューを社員食堂で提供し、注文毎に値段の一部を途上国の学校給食に寄付するプログラムが紹介されています。

ダボス会議で世界の若手指導者に選ばれた伊藤忠の社員が、各社に協力を求めて実現したそうです。伊藤忠も社員の寄付と同額を拠出する仕組みです。

この仕組みはシンプルですが、まさに記事にある通り「先進国の過食と途上国の栄養不足を同時に解消するプログラム」であり、素晴らしい仕組みだと思います。

このプログラム、広がっていくといいですね。

幸せになるのは、権利? 義務?

人間として生まれてきた以上、やはり幸せに生きていきたいですね。

でも、幸せに生きることは、なかなか難しいと思います。(「そもそも、幸せって何?」という議論もありますが、ここでは「幸せとは、各自が大切に思う幸せ」と定義するにとどめておきます)

幸せは、待っていてもなかなか得ることが出来ません。

幸せというのは、色々な試練を経て、勝ち取るものなのではないでしょうか?

また、そうやって勝ち取った幸せも、それを維持させるのはさらに難しいと思います。

「人間は幸せになる権利を持っている」と言われますが、このように考えると、どうもそれだけではなさそうです。

たった一度きりの、宇宙の時間から見れば瞬きにもならないような、とても短い人生です。

「自分が幸せになるのは、義務である」と考え、その幸せを獲得するように自分に正直に生きることが、より充実した人生を過ごすことに繋がるように思いますが、いかがでしょうか?